3 主の語りかけを聴きつつ生きる
「人の生涯は草のようで、野に咲く花のように咲き、風がそこに吹けば、もはやなく、その所すら分からなくなる」(一五節)とは、先のことばを受けて展開される歌です。イスラエルの野に咲く花は、驚くほど美しいと同時に短命です。私たちは確かに、「ちり」に過ぎませんが、主はそんな私たちのいのちを美しく輝かせることができます。しかし、それは神が「良し」と認めたほんの短い間のことにすぎません。ただし、ここでは、「しかし、主(ヤハウェ)の慈愛は、とこしえからとこしえまで」と、「主を恐れる者」の「いのちの輝き」はこの世の限界を超える様子が対比的に描かれます。
そして、「主の義は、その子らの子に……」とは、神と私たちとの
預言者イザヤは、この箇所を前提に、「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(四〇・八)と言いました。自分のいのちのはかなさを覚えることと、神のことばの永遠性を覚えることとは、同時に起こらなければなりません。そうでないと、私たちの信仰は、現実逃避的なものになってしまうからです。私たちは不条理と争いに満ちた世界の中で生きるように召されています。その際、永遠のみことばが何よりの力となります。
私自身、証券業界に身を置いて、昨日の説明が今日はもう古くなるという変化の激しさの中で、永遠に変わることのない神のことばに深く感動し、そのみことばに命をかけたいと思いました。旧約聖書からずっと読み進んでくるときに、神の約束のひとつひとつが確実に成就していることに驚きを覚えるとともに、まだ将来の約束も成就するという安心感を抱くことができます。
最後に、一九節から二二節は、「主(ヤハウェ)を ほめたたえよ」という勧めが、「わがたましい」から広げられ、「主の御使いたち」「主のすべての軍勢」「すべての被造物」にまで向かいます。その根拠は、「主(ヤハウェ)は、天に王座を固く据え、主の王国はすべてのものを支配する」(一九節)ということを確信しているからです。この世界には確かに様々な矛盾があり、また不条理がありますが、それは神にある完全な平和(シャローム)を生み出すための産みの苦しみにすぎません。この世界は神にとって制御不能なのではなく、確実に完成に向かっているのです。
そこで特に、「御使い」のことが、「みことばの声を聴き、みことばを行う力ある勇士」(二〇節)と言い換えられます。彼らの特権は、何よりも、主のことばを直接に聴くことができること、また、彼らの力は、そのみことばを実行できることにあります。つまり、主は、御使いによってというよりは、ご自身の「みことば」によって世界を支配しておられるのです。
そして、その「主のみことば」がこの私たちにも与えられています。それこそがすべての咎、すべての病を癒し、私たちをあらゆる良いもので満ち足らせてくださる神の御手のわざの根本です。なおここでも、「すべて」ということばが四回繰り返され、主のご支配は、「すべての主の軍勢」「すべての被造物」「すべての所」という、天から地の「すべてのもの」に及ぶと歌われます。
最後に、それらすべての霊的な現実を心に留めながら、自分に向かって、「わがたましいよ、主(ヤハウェ)を ほめたたえよ」と訴えます。私たちはこの世の中にあまりにも多くの悲しみを見ます。そして暴力の支配が満ち、弱い者が虐げられている現実に心を留めながら「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わ……ないのですか」(黙示録六・一〇)と訴えざるを得なくなるかもしれません。しかし、私たちの主イエスは、「しかり。わたしはすぐに来る」(同二二・二〇)と力強く約束しておられます。私たちは、主イエスが再びこの世界に現れこの世界に正義と平和を実現してくださることを信じるからこそ、今、ここで「主を ほめたたえる」ことができるのです。
私たちはまわりのいろいろなことに心を配りながら、自分の内側にある「いのちの力」を制御しようと必死になり、その結果、何とも言えない倦怠感に襲われることがあるかもしれません。しかし、全身全霊で主をほめたたえる者のたましいは、鷲のように新たにされ、いのちの輝きが生まれます。その際、賛美の根拠は、自分が主から与えられた力によって成し遂げたことを喜ぶ以前に、「主の慈愛とあわれみ」が私たちにとっての何よりの「冠」であることを覚え喜ぶことです。私たちの心の底にある「渇き」を真の意味で満足させてくださる方は主ご自身なのですから。