2 主(ヤハウェ)の義とさばき、慈愛(へセッド)とあわれみ

「主(ヤハウェ)は 義とさばきを行われる」(六節)以降は、イスラエルの歴史を振り返ったものですが、「あなた」の歩みも、神の民の歴史の一部とされています。そして、この「義とさばき」とは、「すべての虐げられている人々のために」行われるものであり、具体的には、イスラエルを「虐げて」いたエジプトに対する「恐ろしいさばきのみわざ」(七節)として表されたものでした。
 しばしば、主の「義とさばき」を自分の罪に向けられるものとして過度に恐れる人がいますが、聖書では、神の民が苦しみの中で「主に叫ぶ」と、主が敵をさばいて救ってくださるという意味で用いられる場合がほとんどです。パウロも、「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです」(ローマ一・一七)と、「神の義」は何よりも、私たちを義とするためにご自身の御子を十字架にかけたことに現されていると述べています(同三・二一〜二六)。「義」は、英語で righteousness と訳されますが、それは神が私たちとの正(義)しい関係(right relatedness)を築くことを目的としているのです。そのために神は、イスラエルの罪に対しては、忍耐に忍耐を重ねて、彼らにご自身の愛と真実を示し続けられました。

八〜一二節は、主の聖なるご性質を美しく描いたもので出エジプト記が背景にあります。かつてモーセが、イスラエルの民の不従順に耐えかね、主ご自身がともに歩んでくださることの保証を求める意味で、「あなたの栄光を私に見せてください」と願ったときのことです。主(ヤハウェ)は雲の中にあってモーセのもとに降りて来られ、彼の前を通り過ぎるとき、「主(ヤハウェ)、主(ヤハウェ)は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵み(へセッド)とまこと(エメット)に富み、恵み(へセッド)を千代も保ち、答とそむきと罪を赦す者……」(出エジプト三四・六、七)と宣言されました。それがここで繰り返されています。つまり、神の栄光とは「あわれみ深く、情け深い……恵み(へセッド)とまこと(エメット)に富み」という神のご性質のうちに現されるのです。なお、「エメット」とは、「アーメン」(それは本当です)と同根のことばです。
 そのことが新約聖書ヨハネの福音書では、「ことば」と称される神の御子が人間イエスとなられたことに関し、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(一・一四)と、御子の栄光が「恵み(へセッド)とまこと(エメット)」に現されると記されています。
 そして、これらの箇所での「恵み」ということば、またこの詩で「慈愛」と訳したことばは、へブル語のへセッドの訳ですが、それは神がイスラエルを「恋い慕って」(申命七・七)、彼らと契約を結び、彼らに裏切られながらもご自身の約束に真実であられたという神の愛の真実を表す、翻訳が困難なことばです。それは、四節で用いられ、八、一一節で繰り返されています。
 その意味を、ダビデは一〇、一二節で「罪」「咎」「そむき」という罪の三つの類語を用いながら、「主(ヤハウェ)は……私たちの罪に応じて扱おうとはされず、私たちの咎に応じて報いることもない……東が西からはるかに遠いように 私たちの そむきを 遠ざけてくださる」と記します。これは神の慈愛(へセッド)とは、神が私たちの罪や咎に忍耐をしながら、愛するに値しない者をなお愛し続け、その愛によって私たちを「そむき」の罪の支配からはるかに遠ざけ、解放することに表されるという意味です。つまり、「罪の赦し」に始まり、罪の支配からの完全な解放に至るまで、徹頭徹尾、主のみわざであるというのです。その偉大さが「天が地より はるかに高いように、慈愛(ヘセッド)は主を恐れる者の上に大きい」と(一一節)と記されます。
 私たちが主(ヤハウェ)を、「私の神」と告白できたのは、何よりもまず、神ご自身が私たちを「恋い慕って」くださったことの結果です。私たちはみな、自分で自分を信じることができないような面がありますから、「あなたの信仰によって、あなたの罪は赦されます」と言われても、「私の中には、赦されるにふさわしいような信仰はない……」とかえって落ち込むようなことになりかねません。しかし、信仰は自分の中からではなく、神ご自身の愛の眼差しから生まれたものです。その愛に身を任せることこそ信仰の歩みの出発点です。
 また、「あわれみ」ということばも、四節のことばが八節で繰り返され、一三節で二回用いられながらその意味が説明されています。それは、真実な「父」がその「子」に対して抱く感情です。イエスはその「あわれみ」を、放蕩息子の帰りを待っていた父が、自分の方から「彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」(ルカ一五・二〇)という姿で説明しています。

そして、この主の「慈愛」と「あわれみ」は、何よりも、「主を恐れる者」(一一、一三節)の上に注がれます。ただそれは神の前で自分を立派に見せようと気を張ることではなく、「私たちがどのように造られたかを知り……ちりにすぎないことを覚える」(一四節)ことです。
 多くの人々に愛されているゴスペルの名曲 Amazing Grace「驚くべき恵み」は十八世紀のイギリスの牧師ジョン・ニュートンによって記されました。彼は幼いとき、敬虔な母のもとでしっかりとした聖書教育を受けましたが、七歳のとき母が天に召され、それから生活が狂い出しました。彼は奴隷商人の仲間になり、自業自得で奴隷以下のひもじさを味わうほどまでに身を持ち崩したことがありました。その後、難破しそうになった船の中で、肉体の死の恐怖とともに自分のたましいが永遠に失われるとの恐怖に圧倒され、必死に神にすがります。そしてそれと同時に自分が神の愛にとらえられている平安を味わいました。ただその後も、しばらくは奴隷船の船長として生計を立てるほど良心が麻痺したままでした。彼は自分の歩みを振り返りながら、「驚くべき恵み。何と麗しい響きか! それは私のような『ならず者』を救ってくださった。私はかって失われていたが、今は見つけ出された……」と心から歌っています。そして、二番目の詩では、「恵みこそが私の心に恐れることを教え、また恵みが私の恐れを和らげた」と歌われています(大塚野百合著『讃美歌・聖歌ものがたり』創元社刊、一九九五年、九九、一〇〇頁)。
 私たちの人生でも恐怖に圧倒されるようなことがあるかもしれません。それを通して、真に恐れるべき方に出会います。その意味で「恐れ」の感情自体が神の恵みでもありますが、それ以上に、私たちは、自分が救いがたい者であることを知れば知るほど、神の愛に圧倒され、そこに身を震わすほどの感動に満ちた神への畏敬という「恐れ」を抱きます。そしてそのとき同時に、この世の力を恐れる思いから解き放たれます。多くの人々は、「恐れ」ること自体を恥じて、「恐れ」の気持ちを抑圧し、結果的に恐れに振り回されて生きています。しかし、研ぎ澄まされた「恐れ」の感情の中で、真に恐れるべき方と出会うなら、この世の恐れから解き放たれるのです。
 つまり、「主を恐れる」とは、自分が救いがたい者であるという現実を謙遜に認め、自分の肉の力によって救いを獲得しようと頑張る代わりに、主の「慈愛」と「あわれみ」にただすがりつくことにほかならないのです。主を恐れることを知らない者は、無意識のうちにこの世の力への恐れの感情に駆り立てられながら生きているのではないでしょうか。ひとりひとりが、「あなたは何を恐れ、どなたを恐れて生きているのか?」と一瞬一瞬、問われています。
 しかも続けて、「この方は、私たちがどのように造られたかを知り、私たちがちりにすぎないことを覚えておられる」(一四節)と歌われます。これは、創造主が私たちを計る基準は、この世とは全く異なることを覚え、主の御前では、自分の強さや正義をアピールする必要がないということを示しています。それ以上に、自分の無力さを心から意識することこそが、主のみわざが私たちを通してなされるための原点になります。マザー・テレサによって創立された「神の愛の宣教者会」で唱えられている召命のことばでは次のように告白されています(マザー・テレサ著、ホセ・ルイス・ゴンザレス・バラード編、鳥居千代香訳『最後の愛のことば』明石書店刊、二〇〇〇年、二七、二八頁)。そこには自分が「ちり」にすぎないことを認める者たちの驚くべき強さの秘訣が見られます。
 「神様は私が愛したいと願う愛なのです。
 ……
 イエス様は私にとってすべてです。
 イエス様なしに私は何もできません。」


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