1 主のすべての恵みのみわざを思い起こす

ダビデが老年を迎えての最大の事業は、息子ソロモンが神殿を完成できるように様々な準備をすることでした。彼は、その際、四千人からなる聖歌隊を作りました(Ⅰ歴代二三・一〜四)。この詩はその頃、ダビデが生涯を振り返りながら作り、この聖歌隊の愛唱歌となったのかもしれません。なぜなら、ここには私たちの信仰告白の核心が記されているからです。
 一、二節と二二節最後に、「わがたましいよ、主(ヤハウェ)を ほめたたえよ」と三度繰り返されます。そしてこの詩全体を通して、御霊に導かれた自分自身が、肉の身体に縛られた自分のたましいに向かって福音を語るという構成になっています。
 これとコインの裏表の関係にあるのが詩篇四二、四三篇で、そこでは自分の絶望感を優しく受け止めながら三度にわたり、「私のたましいよ。なぜ、うちしおれているのか……うめいているのか?」と問いかけられます。私たちのたましいは、主の恵みなしには「死」という絶望に向かっています。しかし、私たちは、絶望からいのちへと方向転換させられた者として、「わがうちなるすべてのもの」が、「聖なる御名」を賛美することができるのです。
 ある方は、社会的な成功という鎧を身につけることに必死になりながらも、心の奥底では、「生きていてごめんなさい……」という絶望感を抱えて生きていました。しかし、「わがうちなるすべてのものよ。聖なる御名を……ほめたたえよ」とのみことばに出会ったとき、「私はこのために生まれ、生かされてきたのだ!」と、たましいが打ち震える体験をしたとのことです。それはこの世のすべてを超越した「聖なる」御名が啓示されたからです。なぜなら「ヤハウェ」という御名には、この方こそがすべての存在の源であり、すべての存在に意味を与える方であるという意味が込められているからです。人はだれでも、この方との出会いの中で、はじめて、「私は目的を持って生かされている!」と心の底から自分のいのちを喜ぶことができます。

ところで、私たちの心が絶望的な状況から平穏な生活に移ったときに起こる二つの危険があります。それは、高慢と退屈です。高慢は心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」(申命八・一七)と自分を誇ることですが、やがて自己過信による失敗か、倦怠感(退屈)に行き着きます。退屈さとは、ジェームズ・フーストンによると「真昼の悪魔」とさえ言われる感情的な麻痺状態ですが、そこにしばしば、過去の許すことのできない気持ちや苦々しさが湧き上がってきます。そして、記憶から豊かな恵みの数々を発見できなくなったとき、「これからも何も変わりはしない……」という未来への絶望が生まれます。そこでは、「いのち」が「窒息」しています(参照: ジェームズ・フーストン・セミナー二〇〇七年三月二十六日、日光「オリーブの里」)。
 そのようなとき、自分のたましいに向かって、「すべての恵みのみわざを忘れてはならない」と語りかける必要があります。それは、既に与えられた恵み、主が良くしてくださったことの一つ一つを数え上げ、思い起こし、貧しくなった記憶の豊かさを回復させるというプロセスです。
 ところで、一〜四節では「すべて」ということばが四回繰り返されます。「わがうちなるすべてのもの」が、「聖なる御名」を賛美できるのは、「すべての恵みのみわざ」を思い起こすことから生まれます。そして「恵みのみわざ」の核心とは、主が今すでに、「すべての咎を赦し」てくださったばかりか、将来的に「すべての病をいやし」てくださるという保証です(三節)。
 これは、「あなたのいのちを墓の穴から贖い」とあるように、私たちのからだの復活のときに目に見える形で表されます(四節)。そして、私たちの完成のときが、「慈愛(ヘセッド)とあわれみの冠を授け」られるときです。そして、私たちがその栄光のときを目の前に描きながら生きるなら、「あなたの若さは鷲のように新たにされる」(五節)というのです。これは、まるで鷲の羽毛が生え変わるように、繰り返し若さを新たにできることを意味します。そのことを後に預言者イザヤは、「主(ヤハウェ)を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ四〇・三一)と美しく表現しています。

なお、既に与えられている恵みを思い起こすことのなかに、「主は……あなたの渇きを良いもので満ち足らせる」(三、五節)ことも含まれます。この部分のヘブル語原文は意味不明で、福音記者たちも愛用したギリシャ語七十人訳では、「渇き」と訳されています。つまり、ここには依存症への対処の秘訣が記されているかのようです。たとえば私たちの心の中には「愛されること」「尊敬されること」「感動を味わうこと」「喜びを味わうこと」など様々な渇きがあります。たとえば、アルコールや麻薬などで味わう高揚感、ギャンブルの興奮、何かをしながら味わう自己陶酔感などはそれらの渇きを一時的に満たしますが、やがてそれらが「病みつき」になって日常生活に支障が生まれるばかりか、それらの欲求に自分自身がコントロールされるようになります。つまり、心の渇きを「良いもの」ではなく「悪いもの」で満たそうとすることが依存症の根本にあります。
 しかし、生まれてからこの方、私たちは様々な「渇き」を覚えてきましたが、そのたびに父や母、その他の多くの人々によって助けられ、それなりの「良いもので満ち足らせ」ていただくことができたという歴史もあるのではないでしょうか。私たちは、足りなかったことよりも、満たされてきたという側面をこそ思い起こす必要があります。そしてその背後には、あなたの創造主である「ヤハウェ」の真実がありました。
 たとえば、仏教などの根本には、この「渇き」自体を「煩悩」として否定する傾向があるようにも思われますが、聖書はそれを「良いもの」で満たすことを教えています。たとえば、私たちは「愛されたい」気持ちがあるからこそ、「人を愛する」ように命じられています。イエスはそのことを、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタイ七・一二)と言われました。つまり、「自分にしてもらいたい」という自分の欲求に敏感になり、そこから人の欲求を優しい眼差しでとらえ、愛の行動が生まれてくるというのです。そして、私たちの人生を振り返るとき、様々な過ちとともに、それぞれの渇きが健全な働きや努力を生み出したという歴史もあるのではないでしょうか。自分の過去を全面否定するのではなく、あなただからできたと言えるような健全な解決方法があったことを見いだし、あなたらしく輝くということを求めてもよいのではないでしょうか。そこには「あなたの若さは 鷲のように新たにされる」という躍動感も生まれることでしょう。
 また、私たちは与えられた個性や能力を生かしながら、様々な危機を乗り越えてくることができました。それを振り返るとき、あなたは自分に生まれながら与えられている「恵みのみわざ」の大きさを感謝でき、将来にも希望を持つことができるのではないでしょうか。


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