3「たとい死の陰の谷を歩むことがあってもわざわいを恐れはしません」

ただし、主の導きに従うなら、いつも日の当たる道を歩んでいられるというわけでもありません。確実なのは、どんな人生にも「死の陰の谷」(四節)と言われるようなときが避けられないということです。ところが私たちは、突然の地震のように、自分の世界が崩れ去るような気持ちを味わって初めて、この地を支えていた方の愛の御手に気づくということがあるのではないでしょうか。人はどうしても目に見えるものに心を奪われるからです。
 そして、私たちを本当の意味で守り通すことのできるのは、天地万物の創造主だけなのです。その告白が「わざわいを 恐れはしません」(四節b)です。これは、たとえば、日本の戦国時代末期、織田信長の軍に寺を火で焼かれながら座禅を組みつつ、「心頭しんとうを滅却すれば火もまたすずし」と喝破した禅僧快川かいせんの無念無想の境地とは異なります。ダビデは極めて感性が豊かな人で、自分の恐れの感情を赤裸々に表現しているからです。「死の陰の谷」は確かに、恐怖を湧き起こす場なのですが、主(ヤハウェ)ご自身が羊飼いとしてともに歩んでくださるという事実の前で、恐いにもかかわらず、尻込みをせずに前に向かって歩み出すことができるという気持ちを表現したものです。サタンは様々な「わざわい」を見せながら私たちを脅し、神に従うのを止めさせようとします。そのとき大切なのは、「わざわい」ではなく、ともに歩んでくださる主(ヤハウェ)を見上げることです。
 事実、ダビデは、様々な苦しみの体験を通して、「あなたが いつもともにいてくださいます」(四節c)という確信を味わうことができるようにされました。ここでは、「あなたが」ということばが特に強調されています。ダビデは、天地万物の創造主を、本当に個人的に「あなた」と呼びかけ、感謝にあふれた告白をしているのです。たとえば仏教では、浄土真宗の場合は「南無阿弥陀仏」、日蓮宗の場合は「南無妙法蓮華経」と、それぞれ唱えれば救われるという趣旨のことを教えていますが、それに相当する私たちの告白は、「インマヌエル・アーメン」かもしれません。それは、「神は私たちとともにおられる。まさにその通りです」という意味です。

羊飼いは「むちと杖」を持っています。鞭は、羊を矯正するためではなく、羊を野獣から守るために用いられる武器です。そして、杖は羊を正しい道に戻すときに使われます。それは羊飼いの誇りの象徴であるとともに、羊にとっては安心のしるしとなります。主は、私たちを、うちたたくことによってではなく、杖によって優しく正しい道筋に戻してくださるのです。
 確かに、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになる」(ガラテヤ六・七)という現実があり、自分の罪のせいで苦しまなければならないこともあります。しかし、そんな罪人のために、神はご自身の御子を十字架にかけ、罪を赦してくださいました。ですから、自分の身から出たさびのような苦しみに直面するような中でも、「あなたが いつもともにいてくださいます」と断言することができるのです。ダビデも大きな罪を犯し、それが遠因となって、息子から裏切られます。しかし、ダビデは、息子から追われて逃げるような苦しみの中でも、神がともにいて、自分のために豊かな祝宴を用意してくださったということを味わうことができました(Ⅱサムエル一七・二七〜二九参照)。その体験をもとに、「敵の前で、あなたは私のために食事を整え、頭に香油を注いでくださいます」(五節)という告白が生まれました。それは、敵が目の前に迫ってくるような中で、神ご自身が、ダビデの心も身体をも、元気を回復させてくださったからです。しかもそこには「私の杯は 溢れています」(五節b)という喜びに満ちた余裕が生まれているというのです。

最後の節の、「恵み」とは、「善」と訳されることばで、英語では goodness と一般に訳されます。あなたの人生には様々な苦難があったとしても、そのときそのときに、数え切れないほどの「良いもの」が与えられ、それによって生かされてきたのではないでしょうか。また、「慈愛(へセッド)」とは、神がご自分の約束を実現するための誠実さを現します。あなたが神を忘れても、神はあなたを忘れませんでした。その結果として、あなたは今、神を礼拝しているのです。
 そのように、「恵みと慈愛が 私を追い続けます」とは、羊飼いが手を広げて、羊を次から次と新しい緑の牧場に追って行く様子を描いているのではないでしょうか。多くの人は様々な「恐怖」に追われるようにして生きてはいないでしょうか。しかし私たちは、「恵みと慈愛とに追われ」ながら生きることができます。私たちの目の前には、しばしば、苦しみとしか思えないようなこともありますが、それは必ず、祝福への道につながっています。それは、険しい山に登った後で、自分の歩んできた道を、満足をもって振り返るような様子を意味します。
 そして、「とこしえに私は、主(ヤハウェ)の家に住み続けましょう」とは、神殿の中で、主を誉めたたえることを自分の最高の喜びとするような生活を意味します。そのように、私たちも、主にある交わりの中にとどまり、主をほめたたえる歩みを続けるなら、その結果として、「恵みと慈愛」とを、私たちの足跡としても残すことができるようになるのではないでしょうか。

羊は、放っておいたら同じ所にとどまるばかりで、野の草ばかりかその根までも食べ尽くし緑の野を荒れ野にしてしまいます。ですから、良い羊飼いは、しばしば、羊を追い立て、場合によっては、死の陰の谷のようなところを通してまでも、新しい牧草地へと導かなければなりません。私たちも同じように、人を振り回すような自己中心な生き方から、隣人を尊敬し、愛する生き方へと変わる必要がありますが、残念ながら、苦しみを通してしか、「私は自分の生き方を変えなければ……」という切迫感を持てないのが現実ではないでしょうか。
 また、私たちは、羊のようにとてつもない近眼でありながら、それを意識せずに、道に迷い、しなくてもよい苦労をしてしまい、周りをも困難に陥れてしまいます。しかし、「主(ヤハウェ)は、私の飼い主」と告白し続けるなら、主は、恵みと慈愛の御手を大きく広げて正しい道筋に戻し、私たちを用いて、周りの世界にも幸せをもたらしてくださいます。良い羊飼いに導かれた羊は、雑草を消化して、それを肥料に代え、荒れ地をも緑の野に変えることができます。それと同じように、あなたも主に従い続けるなら、自分の生きた後に、美しい緑の牧場を残すことができるのです。


次へ目次前へ