2 私は乏しいことがありません

「天地の創造主こそが、私の飼い主です」との告白の当然の帰結として、「私は乏しいことがありません」という確信が生まれます。ダビデは、自分が羊飼いだったときの体験から、良い羊飼いは、羊に何一つ不自由させないように、常に最善の配慮ができるということを知っています。良い羊飼いは、羊を安心させて、緑の牧場に伏させることができます。また、安全な飲み水を探し出すことができます。そして、弱った羊にいつも目を留め、いつも傍らに付き添い、日照りで飢え渇いたたましいに活力を回復させることができます。また、羊が、誤った道にはずれたときには、優しく自分のもとに「立ち返らせ」、「ただしい道筋」に戻してくれます。
 そのことを背景に、イエスはご自分のことを、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます……わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています」(ヨハネ一〇・一一、一四)と言われました。
 ところが、私たちはしばしば、「私たちの飼い主」が、どのようなお方なのかということを忘れて、羊飼いの言うことを聞かない頑迷な羊と同じような行動を取り、自分で自分の身を傷つけてしまいます。預言者イザヤはそのような状況を、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」(イザヤ五三・六)と述べています。
 神様は人間をロボットのようには造られませんでした。そこに人間のすばらしさがあると同時に、神に逆らって自分の身を滅ぼす可能性も秘められています。しかし、そんなときでも、良い羊飼いが羊を正しい道筋に戻すように、主は私たちを、ただしい道筋に戻し、たましいを生き返らせることがおできになります。そのことが「主は私のたましいを立ち返らせ(回心させ)」(三節)と記されます。つまり、私たちが真の飼い主であられる神のみもとに立ち返ることができるのも、神ご自身の一方的な恵みのみわざだというのです。神は私たちの頑迷さに忍耐に忍耐を重ねながら、ご自身の愛を注ぎ、目に見えない神を信頼する心を育んでくださいます。神は、私たちの意思をも整えてくださるというのです。

しかも、「御名のために」とあるように、主(ヤハウェ)は、ご自分が最高の羊飼いであるとの面目にかけて、ご自分の羊を守ってくださいます。つまり、私たちが、迷い出てしまうようなことがあったとしても、自分を、主に属する羊であると告白し続けるなら、主はご自身の御名にかけて、私たちを永遠のいのちに至る、正しい、義の道筋に戻してくださるというのです。
 人から十分な愛を受けることなく育った人は、しばしば、他の人を信頼することのすばらしさを学ぶことができていません。そのため、ときに攻撃的になったり、ときには卑屈になったりし、他の人をコントロールして自分の身を守ろうと行動し、かえって人間関係を壊すという悪循環に陥ります。しかし、キリストがご自分のいのちをも賭けてこの私を愛してくださったことを心から知るなら、神と人とを信頼する歩みを始めることができるようになります。回心とは、自分の行いを変えようと決心することである以前に、全宇宙の創造主が、このちっぽけな私を、ご自身のひとみのようにかけがえのない者として見てくださったということを認めることです。
 インマヌエル・カントという哲学の歴史を変えたほどの偉大な学者は、「主(ヤハウェ)は、私の飼い主。私は乏しいことがありません」ということばに出会って初めて、真の心の平安を見いだすことができたと言われます。平安は、知識ではなく、主との交わりから生まれるからです。


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