1 主(ヤハウェ)は、私の飼い主

最初のことばは「ヤハウェ」という神ご自身のお名前から始まります。これは、主がモーセに「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト三・一四)と、ご自身を紹介されたことに由来します。そこには、神が、私たちの理解を超え、何ものにも依存せず、すべての前に存在し、すべてを創造し、すべてに意味を与える方であるという意味が込められています。
 ダビデは、そのような方が「私の飼い主」であると告白しました。彼は、もとは羊飼いであり、自分の羊を救い出すためにライオンと一人で戦うほど勇敢な、賢い羊飼いでした(Ⅰサムエル一七・三四、三五)。ところがその彼が、ここでは自分を、ひ弱で、愚かな一匹の羊に過ぎない存在にたとえています。そこには主の御前での彼の驚くべき謙遜な思いが込められています。
 羊は動物の中でも、最も愚かで弱いものの一つです。極度の近視で、わけも分からず進んで崖から落ちたり、道を踏み外して転んだり、その上、悪い水と良い飲み水とを区別することもできません。また、いつもおびえているため、よほど安心できない限り、緑の野の上に身体を横たえることもできません。しかも、仰向けになったら自分で起き上がることもできません。つまり、羊は、羊飼いがいなければ、緑の牧場に伏すことも、憩いの水際みぎわに行くことも、正しい道に戻ることもできない動物なのです。
 ダビデは、歴史上、最も尊敬されている王であるのに、自分をそんな羊にたとえ、羊飼いである神がいなければ生きていけない存在であることを告白しました。私たちは心のどこかで、「信仰によって強い人間になる」という憧れを持っていないでしょうか。しかし、信仰の真髄とは、自分の弱さを認め、ただ「主(ヤハウェ)は、私の飼い主」ですと心から告白することにあるのです。

後の時代、神は預言者エゼキエルを通して、自業自得で国を失ったイスラエルに対して、「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主(ヤハウェ)であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる」(三四・二三、二四)と語っています。ここで預言されている「しもべダビデ」とはイエス・キリストを指しますが、ダビデの名は、それほどにイスラエルの理想的な王、民の羊飼いの代名詞となっているのです。それは、真の意味で自分の弱さを知っている人こそ、真の意味で人を導き、お世話をすることができるからです。ところが、多くの人々はこれと反対に、自分が何か偉大な存在であるかのような幻想の中に生きようとし、人を軽蔑することによって自分の誇りを保とうとまでして、周りの人々を傷つけてしまうようなところがないでしょうか。


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