第五部 幸いな人生へと歩みだすために

人は、だれしも幸せな人生を送りたいと願います。しかし、その思いが、世の人々を「家内安全、無病息災」などを約束する様々な偶像礼拝に駆り立てることになってはいないでしょうか。そればかりか、幸せを約束する危ない宗教に引っ張られて人生を駄目にする多くの人々がいますが、彼らにしばしば共通して見られるのは、自分の人生に責任を担うことへの恐怖感ではないでしょうか。信仰とは、盲目になることでも、また自己決断の責任を回避する道でもなく、真の責任ある生き方を指し示すものです。十七世紀中ごろのフランスの科学者で哲学者でもあるブレーズ・パスカルは今も世界中で愛されている『パンセ』において次のように語っています。
 「すべての人は、幸福になることをさがし求めている。それには例外がない。どんな異なった方法を用いようと、みなこの目的に向かっている。ある人たちが戦争に行き、他の人たちが行かないのは、この同じ願いからである。この願いは両者に共通であり、ただ異なった見方がそれに伴っているのである……これこそすべての人間の行動の動機である。首を吊ろうとする人たちまで含めて。それにも関わらず、大昔から、信仰なしにはだれ一人として、このすべての人が絶えず狙っている点に到達したことはない。だれもかれも嘆いている……この渇望とこの無力とが、われわれに叫んでいるものは次のごとくでなくて何であろう。すなわち、人間の中にはかって真の幸福が存在し、今ではその全く空虚なしるしと痕跡しか残っていない。人間は、彼を取り巻くすべてのものによってそれを満たそうと試み、現在あるものから得られない助けを、現在ないものにさがし求めているのであるが、それらのものはどれにもみな助ける力などない。なぜならこの無限の深淵は無限で不変な存在すなわち神自身によってしか満たされえないからである……」(「世界の名著」 29『パスカル-パンセ-』前田陽一訳、中央公論社刊、一九七八年、二二六、二二七頁)。

詩篇一、二篇はすべての詩篇の入り口であり、また聖書全体への導入のことばとも言えます。その内容は、「幸いな生き方とは?」という問いかけへの答えと言えましょう。そこには、私たちがこの地を治める「王」として、どのように生きるべきかが記されています。

詩篇三四篇は、キリスト者の生き方の基本がイロハ歌のように、各節のはじまりのことばがヘブル語のアルファベットの順番に並んでいます。昨今、「キリスト者の霊性」ということばが多用されていますが、その基本がここに記されているように思えます。

詩篇二三篇は、イスラエルの王ダビデが自分を愚かな羊にたとえて歌ったものです。それは世界で最も親しまれている詩で、私たちに永遠の慰めを与えてくれるものです。しかも、この詩のすばらしさは、生きることの苦しみを味わうなかでこそ心に迫ってくるものと言えましょう。

詩篇一〇三篇は「わがたましいよ。主(ヤハウェ)をほめたたえよ」から始まり、全世界が主をほめたたえるようにと訴える、賛美のクライマックスとも言える詩篇です。何とも言えない「倦怠感」の中に生きている多くの現代人に、真の生きる喜びを指し示す賛美と言えましょう。


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