〈第四部のまとめ〉

第四部を終えるに当たって、イエスが、「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」(マタイ五・八)といわれたことばを思い起こしたいと思います。
 「心がきよい」とは、何も汚れがないというような意味ではなく、透明度が増し加わっている状態を指すと思われます。私たちは、自分の心の闇を恐れる必要はありません。反対に、神の光があなたの醜さを照らしていることは、おびえるべきことではなく、あなたが神の愛につつまれていることのしるしではないでしょうか。そこであなたは、神のいやしの光を見ているのです。ダビデは、「私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです」(詩篇三六・九)と告白しました。
 ギリシャ正教やロシャ正教などの東方教会のある修道士は、カトリックやプロテスタントを含む西方教会の危なさを次のように指摘しています。「西方教会の誤りは、表面的な奉仕のわざの価値を過大評価して、それを特別なものとしたため、不可欠なはずの聖霊の成聖のみわざとの協調をなくしてしまったことです。こうして逃れられない世俗化に陥り、世俗と同化したので、教会の先駆的な本質である霊的な使命、贖いと救いへの方向を失ったのです。現代ヨーロッパの心理的な不安は、この立場からの外面志向、幸福を作り出すための軽率な行動、合理主義などに、ある程度の原因があります」(テオクリトス・ディオニシアトス著『天と地の間——アトスの修道』長屋房夫訳、オーロラ出版刊、一九九〇年、三〇二頁)。
 もちろん東方教会における様々な課題もあることでしょうが、私自身を振り返るときに、無意識のうちに、「聖化」ではなく、「成果」を尺度に自分の働きを計ってきたように思い反省させられます。私たちは、自分の行動を、「純粋な愛のわざ」と思いたいのですが、そこには名誉心や自己実現、達成欲などの「欲望」がうごめいていることがしばしばです。そのため、愛の交わりを証しするはずの地上の教会で、権力闘争とも見えるような争いが生まれることがあります。

また、同じく東方教会の神学者は、「西方教会は『ゲッセマネの夜』の孤独と遺棄にあるキリストに忠誠を示すが、東方は神との一致の確かさを『変容の光』に見いだすのである」とも言っています(V・ロースキー著『キリスト教東方の神秘思想』宮本久雄訳、勁草書房刊、一九八六年、二七四頁)。つまり、西方教会は、キリストの苦しみに倣うという行動面に焦点が合わされすぎて、キリストを包んだ神の光が、今の私たちを包んでくださるという恵みを忘れがちではないかというのです。私たちは、キリストが変貌山において「光り輝く雲」に包まれた姿になられたこと(マタイ一七・五)をどれだけ思い浮かべているでしょうか。また、福音記者は、「聖霊に満ちたイエスは……、そして御霊に導かれて荒野におり」(ルカ四・一)という表現をしますが、その神の御霊は今、私たちキリスト者のうちに宿っています。そのことがどれほど偉大なことかを忘れてはいないでしょうか。
 もちろん、私たちはこの世に神の平和(シャローム)が実現することを願い、また、ひとりでも多くの人がキリストにある救いにあずかることができるように心がけるべきでしょう。しかし、行動面に目を向けるあまり、私たち自身の心が成果主義に駆り立てられてしまうと、分かち合うべきはずの「神にある平安(シャローム)」を見失うという本末転倒に陥ってしまいます。
 私たちは何を目指してこの地上の生活を送るのでしょうか。使徒ペテロは、私たちの救いの始まりと完成について、「私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです……それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです」(Ⅱペテロ一・三、四)と記しています。

スイスで開かれたハンス・ビュルキ氏のセミナーに十名あまりの牧師や牧師夫人とともに集っていたときのことです。私はそのセミナーを通して、自分の心の闇をいやというほど見せつけられたように感じました。しかし、セミナーの最終日、早朝の散歩の中で、山々を朝日が照らし、神秘的なほどの美しさに輝く姿に感動しました。それと同時に、この自分にも、同じような神の光が注がれていると覚えることができました。自分の気づきは、神の光に包まれている結果であると思えたのです。そのあと参加者が一同に集まりながら、ただ主の御前に沈黙を守るという祈りのときを持ちました。その中で、ふと、父なる神が、御子イエスに語りかけたと同じように、この私に向かって「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ三・二二)と語りかけてくださっていると、心の奥底で感じることができました。それとともに、今まで知らなかったような深い平安を味わうことができ、この頬を感動の涙が流れ落ちました。
 私たちの目の前には、いつも多くの課題があります。しかし、自分自身に向けられた神の愛の語りかけを忘れて、働きばかりに目を向けてしまうなら、知らないうちに、自分のプライドにとらわれてしまうことでしょう。その結果、愛のために労しているはずが、争いを撒き散らすということになりかねません。それは、「世にある欲のもたらす滅び」に足をすくわれることではないでしょうか。「神のご性質にあずかる者となる」というゴールを忘れてはなりません。それは、私たちがキリストに似た者になることを意味しますが、キリストご自身でさえ、その公生涯の始まりに、父なる神から、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という語りかけを聞く必要がありました。また変貌山でも、父なる神は、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」(マタイ一七・五)と、「キリストの威光の目撃者」(Ⅱペテロ一・一六)とされた三人の弟子たちに向けて語られました。そして、ペテロは生涯、この体験を日々思い起こしながら、この世の闇の中に神の栄光の現れを宣べ伝えたのではないでしょうか。
 なお、これは特別な神秘体験ばかりを目指すことではありません。神秘体験が麻薬のようになることを私たちは警戒する必要もあります。ですから私たちは、神のみことばであるこれらの詩篇を自分の祈りとしながら、神が示してくださった方法で、神の御前に静まる必要があります。そこには東方教会、西方教会、また、カトリック、プロテスタントなどの区別はありません。私たちそれぞれの違いにばかり目が向かってしまい、そこに共通して流れる、生ける神との生きた交わりの祝福の歴史を見失ってはなりません。神のみわざは私たちの想像をはるかに超えたほどに大きく、またその現れはユニークです。その一端を少しでも味わうことができるなら何と幸いでしょう。


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