3「主が右におられ、私は揺るがされない」

八節から終わりまでは、ペテロがペンテコステの日のメッセージに引用した箇所です。そのことばが旧約での詩篇と若干違っているのは、聖書のギリシャ語訳からの引用が記録されているからです。ダビデは何よりも、「私はいつも、目の前に主(ヤハウェ)を置いた」と告白します。これは、ギリシャ語訳では「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた」と記され(使徒二・二五)、原文をより分かりやすく述べています。多くの人々は、いつも「人を見て」、誰かの顔色をうかがい、他の人の期待に添うような生き方をしがちですが、私たちはいつも、「主を見て」、すべてのことを主に向かって行い、主のご期待に添うことを考えなければなりません。
 そして不思議にも、そのようにできる理由が、「主が右におられ、私は揺るがされないから」と記されます。つまり、主が右にいて私を支えてくださるからこそ、「目の前に主(ヤハウェ)を置く」ことができるというのです。これは、位置関係ではなく、力関係を言い表したものと言えましょう。人は、自分の支えとなる人の眼差しを意識し、その期待に添おうとするのが常ですが、目に見える助け手の背後におられる方こそが、主(ヤハウェ)です。ですから、私たちは常に、主の前に立たせられている者として、主に対する責任を果たすという気持ちですべてのことをなすべきなのです。
 しかも、そうするとき、「この心は楽しみ」(九節)という状態が生まれます。多くの人の憧れは、「楽しむ」ことにありますが、「主を目の前に置く」者こそが、真に楽しむことができるというのです。また、「いのちが喜び」は、原文で、「私の栄光……」と記され、ギリシャ語訳では「私の舌」と記されます。これはしばしば「たましい」とか「全存在」と意訳されます。これは自分にとって一の最も尊い部分が「喜ぶ」ことを意味します。
 最後に、「この身体も安らかに落ち着いている」と加えられます。これによって「心」、「たましい」、「身体」のすべてが、「楽しみ」「喜び」「安心」している様子が描かれます。
 しばしば、「目の前に主(ヤハウェ)を置く」ことを、「主の厳しいさばきを恐れながら生きる」ことと理解されることがあります。しかし、ダビデが詩篇一八篇一九節で、「主が私を喜びとされたから」と告白しているように、私たちもキリストにあって大胆に同じ告白をすることができます。つまり、主がこの自分のことを楽しみ、喜んでおられるからこそ、私も目の前に主を置くことで、「楽しみ」、「喜び」、この身体をも安らかに落ち着かせることができるというのです。

それがまた、「それはあなたがこのたましいをよみ(原文「シェオル」、ギリシャ語訳、「ハデス」)に捨て置かず、あなたに忠実な者には墓の穴さえも見させないから」(一〇節)と説明されます。福音記者ルカは、ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちが、死んで葬られた後、ハデスの炎の中で苦しみもだえる様子を描きました(一六・一九〜二五)。しかし、イエスが十字架上で、悔い改めた強盗に、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(同二三・四三)と約束されたように、イエスのたましいは「ハデス」ではなく「パラダイス」に引き上げられました。
 この箇所を、ペテロは、「神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです」(使徒二・二四)ということの証明に、またパウロは、「神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした」(同一三・三七)ということの証明として引用しました。
 私たちも、イエスの御跡に従い、神に「忠実な者」として生きるときに、肉体的な死を恐れる必要はまったくありません。ただし、そこに逆説もあります。パリサイ人たちは、「私は忠実です!」と自負していましたが、イエスはそんな彼らを退けられました。かえって「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈っていた取税人こそが「義と認められた」と言われました(ルカ一八・九〜一四)。私たちも自分の信仰深さに頼るのではなく、「不信仰な私をお助けください」(マルコ九・二四)と、ただただ、イエスの真実にすがることが求められています。
 そして、私たちが自分の足りなさを自覚するときに、「あなたは(私に)、いのちの道筋を知らせてくださいます」(一一節)と告白できます。そして、「いのち」とは、「(主の)御前には楽しみが満ち、その右には歓喜が絶えません」と言えるような状態が「永遠に」続くことを意味します。それこそ私たちの人生のゴールです。私たちは、キリストにつながることによって、「主の右の座」にまで引き上げていただくことができるのですから(ダニエル七・二七、黙示録二二・五)。

ダビデが記したこの詩篇には三位一体の真理が隠されているように思えます。私の心が沈んでいるときに、私の「内なる思い」を導き、私がイエスにすがるようにと「さとして」くださるのが聖霊です。そして、イエス・キリストが、「私の右」にいて私を支え、弁護してくださることが分かるからこそ、私は目の前に、恐れることなく「主(ヤハウェ)を置く」ことができるのです。私たちは三位一体の神の愛に取り囲まれて、永遠の「楽しみと歓喜」の世界に向かって、この地上にある束の間の悲しみや苦しみに立ち向かっていくことができるのです。「守ってください」という叫びから始まった信仰者の歩みは、楽しみと歓喜が満ちる世界に確実に向かっているということをいつも心に留めて生きたいと思います。


次へ目次前へ