2「ヤハウェこそ、私の割り当ての地、また私の杯」
ダビデは続けて、「ヤハウェこそ、私の割り当ての地、また私の杯」(五節)と告白しました。イスラエルにとっての「幸い」は、約束の地での生活の中にあり、その相続地は命賭けで守るべき宝でした。しかし、土地を与えてくださる主を見上げる代わりに、地上的な駆け引きや、人間の力によって自分の権益を守り通そうと必死になるときに、そこには争いが絶えなくなります。ダビデは自分の居場所を力ずくで守ろうとする代わりに、サウルや同胞の裏切り者との争いを避け、平和を守るために逃げ続けました。それは、主こそが全地の支配者であると信じていたからです。
また同時に、ダビデは「ヤハウェこそ、私の杯」と告白しました。それは、「ヤハウェこそが私の喜び」と言い換えることができます。「主よ、人の望みの喜びよ」という賛美歌は、キリストへの愛の告白です(三五九頁参照)。最愛の人とともにいられることが喜びであるのと同じように、「主がくださる何か」ではなく、主ご自身との交わりをこそ私たちは第一に求めるべきです。
五節で「あなたは、私の命運を、握っておられる」と訳した「命運」とは、原文で「くじ」と記されます。それは当時、土地の分配を決める手段でした。日本では「おみくじ」で一年を占うという奇妙な習慣がありますが、神は明日のことを心配するよりも、明日を支配する神に信頼することを繰り返し命じています。私たちの人生における、偶然の出会いや偶然の事故または幸運ということすべての中に神の御手が働いています。私たちは自分の人生を本当の意味でコントロールすることはできませんが、私の主である方こそは、私の人生をコントロールすることがおできになるのです。イエスは、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ一〇・二九)と言われました。
そのような中で、「はかり縄は 私の喜びの地に落ちた。受け継いだ地は まことに美しい」(六節)とダビデは告白します。この「はかり縄」は「境界線の縄」(バウンダリー・ライン)とも訳されることがあります。土地の境界線は、自分の財産というよりは、私たちが守るべき責任範囲と理解すべきだからです。それは私たちにとって、家族や仕事であったりするでしょう。確かに、富の分配という観点からすると、人生は決して平等ではありません。自分の出生の惨めさを一生恨みながら生きざるを得ない人もいます。しかし、すべてを支配する神に信頼できる人にとっては、家族も仕事も環境もすべてが、「まことに美しい」ものと変えられるのです。そして人生の喜びは、財産の豊かさ以上に、与えられた責任を果たすというプロセスの中に生まれます。
そしてそれは、主(ヤハウェ)が「導いてくださった」(七節)結果であると、主が「ほめたたえ」られます。その上で、「夜になっても、内なる思いが私をさとしてくれる」と述べられますが、この「内なる思い」とは原文で「腎臓」を意味します。これは私たちの最も奥深い思い、感情の奥にある部分ですが、そこが「私をさとしてくれ」、この人生全体を「神の賜物」として喜ぶことを可能にしてくれるというのです。それこそ神の御霊の働きにほかなりません。