1「あなたこそ私の主(主人)。あなたに反して、私の幸いはありません」

この詩篇には全体として、神への信頼が力強く歌われ、希望に満ち溢れている調子が感じられますが、書き出しは、「守ってください。神よ」という必死の叫びになっています。たぶんダビデはこの詩を、サウル王に追われてユダの荒野をさ迷い歩いたり、また、ペリシテの地に亡命しているようなときに記したのではないでしょうか。彼は、目の前の危険を見ないようにしながら、自分に向かって「私は大丈夫だ!」と言い聞かせようとしていたのではありません。
 私たちも自分の置かれている状況を冷静に判断するなら、日々、危険が満ち、何が起こるか予想もつきません。ですから、この単純な叫びを日々、口にすべきではないでしょうか。そしてそれと同時に、人間的な安全策を図ろうとしたり、頼ってはならない人にたましいを売るような屈服をするのではなく、神に向かって、「あなたに私は身を避けます」(一節)とも告白すべきでしょう。
 その際ダビデは、最初、「神よ」と呼びかけた方を、「ヤハウェ」として描きます(二節)。そこには、この方こそがすべての存在の源であり、全世界を治めておられるという意味が込められています。そして続けて彼は、「あなたこそ私の主(アドナイ)」と告白します。これは後のユダヤ人たちが、「ヤハウェ」という御名を発音することをはばかって、「主人」という意味を込めて読み替えたことばです。ここでは、その本来の意味を強調して「アドナイ」と呼び、「私にとっての主人は、地上のだれでもなく、あなたご自身です」という思いを込めています。
 その結果として、「あなたに反して、私の幸いはありません」(二節)という告白が生まれます。ここは、厳密には、「私の幸いは、あなたの上にはありません」と記されています。それは、私たちが、自分を神の上に置き、願い事ばかり並べて、神を御用聞きのように扱うときに、自分の幸いもあり得なくなるという意味だと思われます。人間の最初の罪は、創造主を「私の主」とする代わりに、自分自身を神のようにし、欲望のおもむくままに神の命令を破ったことでした。それによって、人は、エデンの園での「幸せ」を失いました。ですから、ここは、「私の幸いは、あなたを私の主人とすること以外にはありえません」と意訳することもできましょう。

その上で、ダビデは、三、四節で、自分が他者とどのような関係の中に生きるかを明確にします。まず彼は、この地の神の民すべてを「聖徒」、つまり「聖なるものとされた人々」と呼びます(三節)。そればかりか、名もない人々のすべてを、王侯貴族であるかのように「栄光ある者たち」と呼びながら、「すべての私の喜びは、彼らの中にあります」と告白します。
 一方で、「他の神々を追い求める者たち」(四節)は、一見、うまく生きているように見えても、「痛みは増し加わり」という自滅に向かっていることを冷静に見つめます。実際、サウルは圧倒的な優位に立ちながらも、最後は、霊媒をする女にまで助けを求めて自滅しました。一方、ダビデはペリシテ人の支配地にまで逃れますが、彼らの偶像礼拝の習慣の影響を受けることはありませんでした。その告白が「私は、彼らが注ぐ血の供え物を注がず、その名を口にもしません」です。
 私たちもこの地では、別の神々を追い求める人々の中に住まわざるを得ませんが、偶像礼拝に加わるようなことがあってはなりません。私たちにとっての何よりの「喜び」は、同じ神を礼拝する聖徒の交わりの中にあるからです。
 使徒信条に、「聖徒の交わりを信ずる」という告白があります。人間的には、「クリスチャン以外の方が尊敬できる人々が多い……」という現実があるかもしれません。しかし、キリストにつながっている人々は、すべてそのままで、「聖なる者」であり、「栄光ある人々」なのです。そのように他のクリスチャンを神の基準で、「霊の目」で温かく見ることができなくて、どうして自分自身を「高価で尊い」者と見ることができるでしょうか。私たちは、今、目に見える現実を越えて、「聖徒の交わりを信じる」ように召されているのです。
 ヤハウェだけを「私の主」と告白し、主との交わりのうちにこそ「私の幸い」があると認めることが信仰の始まりですが、それは同時に、クリスチャンとの交わりをこの世の交わりに優先して生きることの始まりでもあります。私たちは他者との交わりの中で主を礼拝するのです。


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