1「ただ神に向かって……沈黙している」
「ただ神に向かって、私のたましいは沈黙している」(一節)と、ダビデは最初に告白しています。彼があれほど大きな神の祝福を体験できた鍵は、何よりも、人間的な打算を超えて、神に期待し続けたことにありました。しかも、彼は、人間的な意味での成功と思えることも、すべてが神のみわざであることを認めていました。
この「沈黙」ということばは、「黙って……待ち望む」と、意訳されることもあります。それは、「信頼」と、「沈黙」は、表裏一体のもので、信頼のないところに沈黙は生まれないからです。その心の状態は、「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります」(詩篇一三一・二)という告白としても表現できます。母親に必要を満たされた幼児は、目の前に母親がいること自体を喜んで、嵐の中でも安らいでいられるからです。
ですから神の御前に沈黙できるということは、神への最高の愛の表現と言えましょう。それなのに、私たちの場合は、神の前でどれだけ沈黙できているでしょうか。
預言者イザヤは「悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである」(五七・二〇)と記しています。これは私たちの心の状態に似ていないでしょうか。口先では「私は神に信頼している!」と言いながら、行動では、人の目を恐れ、人間的な力や富を頼りにして生きてはいないでしょうか。その心の分裂状態が、沈黙の中であらわにされます。
ですから、以前、私は、沈黙が恐怖で、敵意さえ感じました。心の底に押し殺していた不安や憎しみ、欲望が吹き出て、収拾がつかなくなるように感じたからです。それを避けるため、心と身体を休みなく動かし続けてきたのかもしれません。しかし、マイナスの感情は、押し殺しても、腹の底に確かにあり、それが私を動かし続けたのです。その結果、さして重要でないことにエネルギーを傾け、周りの人々までも振り回してきたことがあるような気がします。
しかし、幸いにも、徐々に、沈黙することが苦痛ではなくなりました。それは、一時的な混乱を通り越しさえするなら、沈黙を通して、神への信頼が、たましいの奥底に根を張ることができるという期待が実感できるようになってきたからです。そして、そこから、もはや口先だけの信仰ではなく、神に焦点を合わせた行動が生まれるようになるという希望が見えてきました。
その際、「ただ神に向かって……」という沈黙の方向性こそが鍵になります。羅針盤の針が常に北極を指すように、「私はいつも、目の前に主(ヤハウェ)を置く」(詩篇一六・八)のです。心の目を、世の富や権力、人の評価などにではなく、ただ神に集中します。なぜなら「私の救い」(一節)は、この世の人や物の背後におられる「この方から……来る」からです。
私たちは、しばしば、解決の「方法」にばかり目が向かって、神がどのような方であるかを忘れてはいないでしょうか。聖書を読んで不思議に感じるのは、神の奇跡は毎回ユニークで、同じことの繰り返しがないということです。しかも、ひとつひとつの不思議な神のみわざには、驚くほど多くの人の生き方自体を変える力がありました。
神の御前に静まりながら、自分の人生を神の救いの大きな物語の一部としてとらえ直してみてはいかがでしょう。二度と体験したくないと思えるような悲劇さえ、より大きな救いの喜びの物語の一部とされます。実際、ダビデは不当な苦しみを受け続けましたが、それを通して多くの詩篇が生み出され、苦しむ人々に今も消えることのない希望を与えて続けています。