2「神から、私の望みが来るからだ」

ところが、私たちは「この方だけが私の岩、救い、また砦の塔。私は決して揺るがされない」(二節)と告白しても、すぐに周りの状況に心が揺すぶられます。ダビデ自身も自分を攻撃する人々のことに心が奪われました。
 なお、神が「私の岩……砦の塔」と呼ばれているのは、敵の手の届かない高い所に、神が私を守っておられると信頼しているからです。しかし、人々の目には、その土台が、「傾いた城壁か、ぐらつく石垣かのように」(三節)しか見えないというのです。ダビデもサウル王のもとで最初は輝かしい栄誉を受けていましたが、サウルから追われる立場になったとたんに、自分の同族であるユダの人々からさえも裏切られました。
 彼らは自分の身の安全ばかりを考えている偽善者で、「人の尊厳をおとしめることばかりを計り、偽りを喜び、口では祝福しながら内側ではのろっている」(四節)ような人たちでした。
 私たちもダビデと同じように神に選ばれた者としての「尊厳」を与えられています。しかし、そのことを喜んで証ししようとすると、それを見る周りの人々は、かえってねたみに駆られ、私たちを「おとしめることばかりを計る」というようなことが現実に起きていないでしょうか。

それでダビデは、自分の「たましい」に、「沈黙せよ」と命じる必要がありました(五節)。その際、一節の「沈黙」は名詞でしたが、ここは動詞形で、多くの翻訳は命令形と解釈しています。
 「たましい」はいつも何かに固着しようとしますから、黙っていると勝手な方向に走り出してしまいます。ですから、様々な思いが湧き起こっても、川の流れを見るように右から左に次々とただ流しながら、「ただ神に向かって……沈黙せよ」と、自分のたましいに穏やかに優しく語りかけることが大切だと思われます。その際、分散した心を神に向ける鍵のことばを持っていると助けになると言われます。それは、たとえば、「主よ!」のひとことでも良いですし、「主よ。あわれんでください」と繰り返すことでも結構です。自分に合ったパターンがあることでしょう。
 そしてここでは、一節にあった「私の救い」ということばの代わりに、「私の望み」(五節)が、「この方から……来る」と告白されています。それは、この沈黙の中で、たましいは、自分の願望からしだいに自由になり、神から与えられる「望み」を、「私の望み」とするように変えられるからです。マリヤは御使いから受胎告知を受けたとき、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ一・三八)と祈りました。それは、「神の望み」を、「私の望み」とすることでした。
 私は自分の願望に縛られ続けてきたように思います。そして、しばしば、この世的な成功体験は、その構えをかえって強化させることになります。しかし、期待が強過ぎると、その通りにならない現実の中で失望し、疲れることも多くなります。しかも、自分の期待に縛られていると、その枠を外れたところに注がれている数多くの神の恵みに気づくことができなくなります。
 そして不満ばかりに目が向かうと、神からの恵みに心がますます鈍感になり、感謝の代わりに不満が鬱積するという悪循環に陥ります。ところが、沈黙の祈りはそれを逆転させ、日常生活の中に驚くほど多くの神の恵みのみわざを発見させる助けになるように思われます。

なお、ダビデは徐々に力を抜いて、「この方だけが 私の岩、救い、また砦の塔。私は揺るがされない」(六節)と、受動態で自分の希望を告白できるようになってきました。これは二節の繰り返しのようですが、嵐をくぐり抜けたことで、「決して」という「力み」が抜けています。
 彼は、心が大きく揺るがされることを体験した後に、そんな自分が神によって支えられていると実感することができたのではないでしょうか。そのことを受けて、「私の救いと私の栄光」は、自分の努力以前に、すべて「神のもとにある」と告白しています(七節)。そして「私の力の岩と避け所」は、自分の信仰以前に、「神のうちにある」と安心して告白しています。


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