3「あなたがたの心を御前に注ぎ出せ」

ダビデは、そのような体験を踏まえて、「民よ。いかなるときにも、この方に信頼せよ」(八節)と勧めています。しかも、その上で、「あなたがたの心を御前に注ぎ出せ」と、一見、沈黙の反対とも思えることを勧めています。それは心の内側にある様々な混乱した思いを「私たちの避け所」である「神」に、正直に打ち明けることです。
 神への沈黙は、感情にふたをすることではありません。実際、「注ぎ出す」とは、「からにする」とも訳されることばで、沈黙とは矛盾することではありません。私たちは、湧き上がった不安や怒りや悲しみを、優しく受けとめた上で、たとえば「主よ。私は不安です……」と言いつつ、その気持ちを主にささげることができます。すると、感情の嵐は、しだいに落ち着くものです。それは、目の前のハエを追い払おうと必死になるならかえってハエは暴れますが、がまんして無視し続けるなら、ハエはやがて、静かに立ち去るようなものです。

なお、九、一〇節は、翻訳が困難な表現です。ただ、どのような翻訳においても、人の力に頼ることのむなしさが語られていることは共通していると思われます。
 神は現在、天からパンを降らせる代わりに、人との協力から成り立つ仕事の場を備えることによって、私たちにパンを与えてくださいます。しかし、そのような霊的現実を忘れ、目に見える現実ばかりに心が奪われてしまい、神の前に静まることを素通りするなら、人の顔色ばかりを窺うような、人間の奴隷になってしまう可能性があります。
 「人間の子らは 息のようなもの」とあるように、いざとなったら頼りにならないという面があることを忘れてはなりません。ほとんどの人は所詮、自分の身を守ることに夢中です。自分に被害が及びそうになると、良い人と思われる人でも、「欺く」ことがあります。しかも、この世の権力者が人の目にどんなに重く見えても、神の目からは、「息よりも軽い」存在に過ぎません。
 そして、「暴力に信頼するな」(一〇節)とは、八節の「この方に信頼せよ」との対比表現です。人は「暴力」または「力による強制」に動かされがちですから、「力に」頼ることで、短期的には効果が生まれる場合が多いことでしょう。しかし、そこに落とし穴があります。それが、「強さが結果を生んでも、それに心を留めるな」という勧めです。なぜなら、富や力を基にした「強さ」は、麻薬のように人を依存させ、目に見えない神を忘れさせるからです。

「力は 神のもの」(一一節)とあるように、私たちは、目に見える力の背後におられる神にこそ目を向けるべきです。そして、王であるダビデは、神を、自分の主人という意味を込めて、「主(アドナイ、主人)よ」と呼びかけます。その際、「慈愛(へセッド)も あなたのもの」(一二節)と、主がご自身の契約を守り通してくださる真実さを賛美します。「神を知る」という黙想の目的は、何よりも「神は真実です」(Ⅰコリント一〇・一三)ということを腹の底に据えることです。
 そして最後に、主を「あなた」と呼びつつ、この世の因果律や方法論を越えて、ただ神だけが私たちの労苦に公平に「報いてくださる」方であると告白します(一二節)。
 確かに、人はみな、誤解を受け、非難されることで傷つきます。しかし、肉なる人間は誰も、あなたを完全に理解し、正しく評価することはできないのではないでしょうか。それなのに私たちは、「この人にだけは分かってもらいたい……」などと忙しく動き回ったあげく、主の御前に静まるという時間をなくしてしまう場合が多いように思われます。
 私自身、人から誤解されたくないという思いに駆り立てられて、無駄な時間を過ごしたばかりか、問題を広げてしまったことすらあったことを反省しています。この世の不条理は常に目の前から消えないことを受け止め、この世の尺度を越えた神の視点にすがるべきなのです。

私たちは常に神に向かって生きるべきです。その始まりは、神の御前に心を注ぎ出し「から」にすることです。黙想の第一の目的は、霊的な恍惚状態を体験することではありません。
 光は、ちりに反射することで見られるのですから、心のちりに驚く必要はありません。心を透明に、空にすることで、「キリストの心」(Ⅰコリント二・一六)が、「土の器」を通して生きることが可能になります。そのきっかけが神の前に沈黙することです。
 そしてその「実」は、しばしば黙想の中ではなく、日常生活に知らないうちに表されます。ですから、黙想の「実」が、すぐに見えないことに失望する必要はありません。


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