「ただ神に向かって、私のたましいよ、沈黙せよ」
多くの信仰者にとっての落とし穴とは、主ご自身を仰ぎ見ることよりも、自分の「生き方」や人の成功例に目が向かってしまうことではないでしょうか。多くの人々から尊敬されている神学者でカウンセラーでもあるラリー・クラブは自分の失敗談を以下のように語っていました。
「私は、神学校でとても献身的な青年に出会い、彼の信仰の歩みがどのようなものだったかを聞いてみました。彼は高校時代に放蕩三昧の生活に堕落し、敬虔な両親を傷つけていました。ところが、ある日のこと、いつものように深夜に帰宅し、そっと自分の部屋に入ろうとしたところ、親の寝室のただならぬ雰囲気に気づきました。母は涙を流しながら自分のために必死に祈っていたのです。彼はその様子を見て、瞬時に自分の愚かさに気づき、神に立ち返ったというのです。
私はそれを聞いて、深く心を動かされ、その母親の模範に倣おうとしました。私もその頃、息子のことで悩んでいたからです。私も、息子の帰宅が遅れたときを見計らって、寝室の戸を少し開けながら、彼に聞こえるように大声を出して、私の息子を救ってください!と、叫びつつ祈ってみました。しかし、何も起きはしませんでした。私は自分の愚かさを恥じました。
その母親は明日の見通しがないまま、ただ必死に、神に信頼し、神に向かって心を注ぎだしていました。しかし、私は、その模範に倣おうとしながら、『こうしたら、このような結果が生まれるはず……』という『方法』に身を委ねていただけだったのです」(メッセージ録音CD、Larry Crabb "Discovering Our Desire for God" 二〇〇六年 Published by Regent College Audio Library)。
今回は、「沈黙の祈り」という、昔大切にされ、今は忘れられがちな祈りに目を向けますが、その際、私たちは、「神に向かって……」という沈黙の方向を忘れてはなりません。それは救いの時期も方法も「神の自由」に委ねることです。
振り返ってみると、私は何よりも失敗することを恐れて生きてきました。そのため人の行動を予測し、管理したいような思いがあり、予想外の事態に腹を立てることがありました。その態度は、神にも向けられていたような気がします。そのため、神から示された道も、また限りないほどの意外な恵みも数多く見逃してきたような気がします。あなたはどうでしょう?