詩篇六二篇

指揮者のために。エドトンによって。ダビデの賛歌
ただ神に向かって、私のたましいは沈黙ちんもくしている。  (1
 この方から 私の救いが来る。
この方だけが 私の岩、救い、またとりでとう。  (2
 私は決して 揺るがされない。
いつまで おまえたちは人を襲うのか。  (3
 傾いた城壁じょうへきか、ぐらつく石垣かのように、こぞって押し倒そうとしている。
彼らは人の尊厳そんげんをおとしめることばかりを計り、  (4
 偽りを喜び、口では祝福しながら内側ではのろっている。  セラ
ただ神に向かって、私のたましいよ、沈黙せよ。  (5
 この方から 私の望みが来るからだ。
この方だけが 私の岩、救い、また砦の塔。  (6
 私は揺るがされない。
私の救いと私の栄光は 神のもとにある。  (7
 私の力の岩とどころは 神のうちにある。
民よ。いかなるときにも、この方に信頼せよ。  (8
 あなたがたの心を御前みまえに注ぎ出せ。 神は私たちの避け所。
まことに、人間の子らは 息のようなもの、  (9
 人の子らは あざむくもの。
はかりにせると上に上がる。
 彼らを合わせても息よりも軽い。
暴力に信頼するな。略奪りゃくだつをむなしく誇るな。  (10
 強さが結果を生んでも、それに心を留めるな。
神は、一度告げられた。  (11
 二度、私はそれを聞いた。
力は神のもの。
 主(アドナイ)よ。慈愛(へセッド)も あなたのもの。  (12
まことに、あなたは、報いてくださる。
 それぞれの人の行いに応じて。

翻訳注

  • 標題の「エドトン」とはダビデから任命された聖歌隊の指揮者の名だと思われるが(Ⅰ歴代一六・四一)、調べまたは歌い方を指しているという解釈もある。
  • 四節は厳密には「彼の高くされた状態から突き落とすことばかりを計る」と訳すこともできる。
  • 九節は原文で「アダムの子ら……」「人(男)の子ら……」となっており、これを「身分の低い人々」「高い人々」と区別して訳する場合がある。ただ、それもひとつの解釈に過ぎず、ここでは原文のまま人間一般の言い換えと理解した。
  • 一〇節「強さ」は「富」と訳されることもある。ただ中心的な意味は、人間的な強さや能力であり、この方が文脈に合っている。また「結果を生む」とは、原文では、「実を結ぶ」ということば。
  • 一二節の主(アドナイ)とは、いつものように「主人」を意味することば。この詩で興味深いのは、主(ヤハウェ)の名は一度も出ず、すべて「神」と呼びかけ、ここだけ「アドナイ」と呼ばれること。「慈愛」(へセッド)も、神ご自身の「契約への真実さ」を意味する鍵のことば。


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