3「ああ、もし私が、これを信じられなかったとしたら……」

「たとい、私の父、私の母が、私を見捨てようとも、主(ヤハウェ)は、私を引き寄せてくださる」(一〇節)とありますが、私たちの心が不安的なのは、幼児期に自分の父や母から見捨てられるような気持ちを味わった結果であると言われます。幼児にとっては、しばしば、ほんの一時的に保育園にあずけられるという体験すら、この、「見捨てられ不安」のきっかけになると言われます。
 私も幼児期を振り返り、父母が一生懸命だったことを理解しながらも、様々な心の傷を受けてきたことを思い起こしていたことがありました。そのときふと、このみことばが心に響いてきました。それは涙が止まらなくなるほどの不思議な体験でした。そして、私にこの父と母を与え、私を大雪山のふもとで育んできたのは、いつくしみに満ちた主のご計画であると分かりました。

続いてダビデは、「教えてください! 主よ。あなたの道を。導いてください! 平穏な小道に」と訴えかけます(一一節)。人は自分の父や母によって「教えられ」「導かれ」ますが、彼は今、主(ヤハウェ)ご自身を「私の父」「私の母」としつつ、主が自分を永遠の祝福へ導いてくださることを求めます。その際、彼の生涯は波乱に満ちたものではありましたが、正直な気持ちは、「平穏な小道」に導かれることだったというのです。私たちも、「お前は、まだ苦労が足りない……」などと言われているような気になることがありますから、この祈りは不思議な慰めになります。
 しかも彼は、「私の仇の意のままにさせないでください。偽りの証人どもが迫り、暴言を吐いているのです」(一二節)と自分に迫る具体的な危険を訴えかけています。私たちも、「自分の敵を愛さなければ……」と自分に言い聞かせる前に、このように正直に祈ることができます。

そして、最後に、「ああ、もし私が、これを信じられなかったとしたら……」(一三節)という不思議な仮定法の表現が出てきます。それは「主のいつくしみを、この生ける者の地で 私は見る」ということを信じられなかったとしたら、自分は生きていることができなかったはずだという告白です。ダビデは、私たちが想像も出来ないほどの絶望的な状況を何度も潜り抜けてきました。ときには、「死んだ方が楽では……」と思えることもあったかもしれませんが、彼は「生ける者の地」で、「主のいつくしみを……見る」ことを期待し続けました。私たちも逃げ出したいような気持ちに襲われることがあったとしても、また、一時的に、神が自分を見捨てていると感じられるようなことがあったとしても、この生ける者の地にとどまり、ここで主を慕い求めることが大切です。
 「勇ましくあれ。心を大きくせよ」(一四節)とは、私たちの心が、「おびえ退き」また、「あきらめる」傾向に流れることへの戒めとして記されます。私たちが弱気になるとき、心の視野が狭くなり、より大きな神の救いの計画が見えなくなるからです。
 そして、これらのことばを挟むように、「待ち望め! 主(ヤハウェを)と、自分のたましいへの語りかけが繰り返されます。私たちも、目の前の状況がどれほど暗くても、主が必ずご自身のいつくしみを見せてくださることを待ち望み続けるものでありたいものです。
 ダビデは、「あなたの慈愛(へセッド)は、いのちにもまさる」(詩篇六三・三)と告白しました。彼は自分のいのちを自分の力で守ることよりも、神の真実な恵みを慕い求め、それに身を任せることを選び続け、「主(ヤハウェ)の慈愛(へセッド)」こそが、いのちの源であることを告白し続けたのです。私たちの人生に本当に必要なのは、「主を待ち望む」という真の希望の力です。多くの人が罪に身を任せてしまうのは、まさにこの希望が見えなくなって自暴自棄になるからでもあります。

「主の御顔を慕い求める」とは、神の恵みの光が降り注ぐ場に自分を置くことを意味します。ただし、それは、自分の知性やイメージを働かせて、自分にとっての憧れの神を思い浮かべることでは決してありません。それは自分の願望自体を神にすることにつながるからです。
 「主の御顔を慕い求める」ことの基本は、自分の人生を、神からの贈り物として見直すことに始まります。それは、自分の生涯に神の恵みが迫ってきた体験を思い起こし、その記憶を深めることです。それはまた、激しい苦しみや痛みの中でも、神に自分の気持ちを注ぎ出しながら神の御前にとどまり続けることではないでしょうか。そして、恵みを必死に掴み取ろうとする生き方ではなく、忙しさのただ中で、ただ、力を抜いて、神の恵みが自分に迫ってくるのに身を任せるときを聖別することではないでしょうか。それこそ、イエスが、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ六・三三)と命じられたことの意味です。それは、愛する人との時間を大切にし、その人の心のことばに真剣に耳を傾けるのが何よりの愛の表現であるのと同じです。


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