2「あなたの御顔を、主よ。私は慕い求めます」

ダビデは、それほどに主との親密な交わりを求める理由を、「それは、悩みの日に、主が私を隠れ場に隠してくださるから」(五節)と説明し、またそれを、「幕屋の奥深くにかくまい」、「岩の上に上げてくださるからだ」と言い換えます。このふたつの表現とも、主(ヤハウェ)こそが、自分を敵の手の届かないところに守ることができる方であることを表したものです。
 そして、彼は、その幕屋で、賛美のいけにえをささげることを心から願いました。実際、彼は苦しみの中で、多くの詩篇を記し、それを主に向かって歌うことをライフワークとしました。そして、それこそが、ダビデが私たちに残した最高の遺産となっています。
 ただ、ダビデの心は、いつも、先の告白にあったように「この心は恐れない……私は信頼している」(三節)と言えたわけではありません。彼は、しばしば、神が自分を見捨てておられるかのような恐怖を味わっていました。彼はその気持ちを驚くほど正直に、以下のように訴えかけています。
 「聞いてください! 主(ヤハウェ)よ。呼んでいるこの声を……御顔を私から隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、退けないでください……見放さないでください。見捨てないでください」(七、九節)。ダビデは、今、神を遠く感じながら、たたみかけるように必死に叫んでいます。私たちの信仰生活においても、神の圧倒的な臨在を体験するときと、神の不在、または神の沈黙を体験することは、切り離すことのできない、コインの裏表のような体験ではないでしょうか。

そのただ中で、神ご自身が「わたしの顔を、慕い求めよ」と招いておられることばを、「この心」が、自分に向かって、「ささやく」というのです(八節)。それは神の御霊に導かれた「私の霊」が発することばです。そして、それに応答するように、「私のたましい」が、「あなたの御顔を、主(ヤハウェ)よ。私は慕い求めます」と告白します。これは先の詩篇四二、四三篇で「私のたましいよ。なぜ、うちしおれているのか……」と、自分から自分に向けて三度問いかけ、そのたびに「私はなおもたたえよう……私の神を」という告白が生まれていたのと同じ構造です。
 なお、この、「慕い求める」ということばは、先の、「一つのことを……私は慕い求めている」と告白したことばと同じです。ですから、神の御顔を慕い求めるとは、自分の理性や知性で必死に神を探求することではありません。それは「主(ヤハウェ)の麗しさを見つめ」、ただ沈黙のうちに、神の光が自分を照らすことに身を任せることです。そして、そこで「主(ヤハウェ)の慈愛(へセッド)」、つまり、私に対して、神がいかにご真実であられたかを思い起こすのです。

私は、何事も極め追い求めることに一生懸命になる性格です。そのため、今このときを喜ぶことができず、息苦しくなることがありました。しかし、自分の歩みを振り返ってみると、神の恵みの体験は、自分でつかみ取ったものではなく、何とも不思議に、与えられたものでした。たとえば、神のみことばが、一方的に自分に迫ってくる体験がしばしばありました。
 それにしても、「御顔を慕い求める」とは、自分の積極的な意思を表すことばでもあります。それは、神との交わりのために、時と場所を聖別するという働きを意味すると思われます。私にとって何よりも苦痛だったのは、何もせずに、主の前にただ黙って座っていることでした。しかし、主が私に求めておられることは、主の御顔の前に、ただ自分を差し出すということだったのです。私の中にはいろいろな醜い思い、隠していたい思いがありますが、それを抱えたままで、主の御顔を慕い求めるとは、まさに自分の肉からは決して生まれない、御霊の導きなのです。


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