1「一つのことを 私は主(ヤハウェ)に願った。それを 私は慕い求めている」

「主(ヤハウェ)は、私の光」と言うとき、人はいろいろなイメージを浮かべることができます。何よりも、「光」はすべてのいのちの源であり、また目に見えない神のご支配の現実を照らし出すものです。預言者イザヤは、世界の完成の姿を「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わる」(イザヤ六〇・二〇)と預言しました。それこそ私たちの人生のゴールです。
 また「光」は私たちの心の闇をあらわにします。それは本来恐るべきことでしょうが、ここでは、「主(ヤハウェ)は」、私の罪をさばく方としてではなく、「私の救い」として告白されます。
 それは、「『光が、やみの中から輝き出よ』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった」(Ⅱコリント四・六)とあるように、「私の光」である方は、私の心を照らし、キリストとの個人的な交わりを生み出してくださるからです。すなわち「光」は、私たちの心を暖かく包むものなのです。そして、このいつくしみの光は、徹底的な受身の姿勢の中でこそ味わうことができます。それは日向ぼっこにも似ています。
 この「光」にとらえられた私たちに、敵対できる者はいません。神が味方となってくださるので、悪の力は、私たちを攻撃しようとすることによって神を敵に回してしまい、自滅せざるを得ないのです。まさに、「私の仇、私の敵、彼らこそが つまずき、倒れる」(二節)のです。
 また、それゆえ「たとい、私に向かって陣営が張られても、この心は恐れない」と告白されます。これは本来、恐怖心を呼び起こすはずのものが、主を見上げることで恐れの対象ではなくなることを意味します。同じように、「たとい、戦いが迫ってきても、それでも、私は(強調形)信頼している」(三節)と告白します。それは、主(ヤハウェ)が彼らと戦ってくださることへの信頼です。

その上で、この詩篇作者は、「一つのことを 私は主(ヤハウェ)に願った。それを 私は慕い求めている」(四節)と告白します。多くの人は目に見える富やこの世の栄誉、権力などに憧れますが、彼の憧れは、「いのちの日の限り、主(ヤハウェ)の家に住むこと」だというのです。「主(ヤハウェ)の家」とは、当時は「神の幕屋」を指すとも解釈できますが、神との豊かな交わりを体験できるすべての場を指すとも理解できます。つまり、豊かな礼拝生活こそが最大の憧れだというのです。
 そこで彼は、「主の麗しさを見つめる」ことを慕い求めるというのですが、「麗しさ」とは、「ここちよさ」とか、「いとしさ」などとも訳されることばで、英語では、「sweetness」とさえ訳されています。それは「主を恐れる」という概念と一見矛盾するようですが、決してそうではありません。主はご自分の愛を軽蔑し、ご自身に逆らう者に怒りを発しますが、へりくだってご自分の懐に飛び込んで来る者には、その愛といつくしみを余すところなく示してくださるからです。
 そして、また、「その宮で、深く静まることを」慕い求めるとは、心の目を神の臨在にただ向けるという教会の伝統的な祈りの原点を示していると思われます。それは「観想」の祈りとも呼ばれます。聖書はこの世界の完成の状態を、「そのしもべたちは神に仕え(礼拝し)、神の御顔を仰ぎ見る……神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない」(黙示録二二・三〜五)と述べています。それは、「顔と顔とを合わせて(神を)見る」(Ⅰコリント一三・一二)ときです。私たちはそのときを憧れながら、この地においてその前味を味わうことを求めるのです。
 ヤコブはヤボクの渡しでの神との格闘のあとで「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」(創世三二・三〇)と言いましたが、彼はこの後、不自由に足を引きずりながら歩きつつ、自分の上に太陽が上っていることを喜びました。同じように私たちも様々な罪を示されながらも、その自分が「光」に優しく包まれていることが分かります。私たちは、心の中に誰にも見せられないような暗やみがあっても、「主は、私の光、また救い」と大胆に言えるのです。


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