2「万軍の主は、われらとともにおられる」

四節の初めは、「あっ。川だ!」という驚きです。エルサレムは山の上にある町ですから、城壁の内側を流れるような川もなく、攻撃されると水が生命線となります。ところが、終わりの日には、神殿から水が湧き出て、四方の地をエデンの園のように潤すと預言されているように(エゼキエル四七章)、「避け所」であられる神は、この水をエルサレムに直接お与えくださるというのです。そして、その救いのみわざとしての、「その流れは、神の都を喜ばせる」と告白されます(四節)。
 しかも、私たちは、神が、町の「ま中に居まし」と確信できるとき、その必然的結果として、その「都は揺るがない」と言うことができます(五節)。そして、「神は、夜明け前に、これを助けられる」とは、人の目には世界の終わりと見える絶体絶命の危機を解決することは、神にとって「朝飯前あさめしまえ」のことだという意味です。事実、イスラエルの歴史において、神が、そのようにまたたくまに、敵を滅ぼされたということが二度も起きました。
 ヨシャパテ王の時、「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主(ヤハウェ)は伏兵を設けて」敵の連合軍を攻め、その結果、彼らは同士討ちによって全滅したと記されています(Ⅱ歴代二〇・二二)。そして、ユダの民は、戦うことなく勝利を得、残された仕事は三日間かけて残された宝を集めることだけでした。
 その約百五十年後のヒゼキヤ王のとき、アッシリヤ王国が北王国イスラエルを滅ぼした勢いでエルサレムを包囲しました。このときも、王は、「祈りをささげ、天に叫び求めた。すると、主(ヤハウェ)はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの王の陣営……を全滅させた」(Ⅱ歴代三二・二〇、二一)と、簡潔に神の救いが記されています。これは、夜のうちに、まさに「夜明け前に助けられた」ことでした(Ⅱ列王一九・三五)。
 これらを踏まえ、「諸国の民はどよめき、国々は揺らぐ、神の発する御声は、その地を溶かす」(六節)という不思議な神の救いが描かれます。そのように、この地上の王国が「揺らぐ」という不安定さは、「山々が海に沈むほど揺らぐ(二節)ということに似せられています。それは、たとえ火砕流や津波のように諸国の民が「どよめき」つつ、大軍が怒涛どとうのように迫ってくるようなことがあっても、神はその、「発する御声」ひとつで、彼らの足元の地を溶かしてくださるという意味です。そのように「国々は揺らぐ」のに対して、「神が、ま中に居まし、都は揺るがない」(五節)という神の国の安定が強調されています。

「万軍の主(ヤハウェ)は、われらとともにおられる」(七節)は、この詩篇のテーマで一一節にも繰り返されます。原文では、「主(ヤハウェ)」という御名の呼びかけに続き、その方を「万軍」と告白しています。ヤハウェは、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト三・一四)に由来し、すべての現象の背後に神がおられることを意味しますが、それに加えて記される「万軍の」とは「無敵」を意味することばです。つまり、どんな大軍も神の前には無力だというのです。
 そのことが、新約聖書では、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう……しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ八・三一、三七)と告白されています。ここでの「圧倒的な勝利者」とは、キリストにあって既に実現している状態を意味します。
 しかも、聖書の最後では、世の人が求める力ではなく、一見無力な「ほふられた小羊」(黙示録五・一二)イエス・キリストこそが「万軍の主」であると告白されているのです。この世に悪がのさばっているのは、神が無力であることのしるしのように見えますが、それは、神がご自身の全能の力をあえて隠しておられることの結果にすぎません。この世に様々な不条理が満ち溢れているのは、私たちが互いに愛し合うことを学ぶためではないでしょうか。なぜなら、「愛」は痛みに共感することから始まるからです。そして、神は何よりも「愛の国」を建てようとしておられます。
 しかし、私たちの目が「万軍の主(ヤハウェ)は、われらとともにおられる」という霊的な事実に向けられるなら、私たちは、力に対して力で抵抗する代わりに、キリストに倣って、不当な苦しみに耐えながら、敵にさえも愛を持って接することができます。そのとき、「力」を支配の手段としている悪の力は、その武器を無力化されるのです。


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