1「それゆえ、われらは恐れない」

この詩篇は、エルサレムが死海の東側にある国々の連合軍からの攻撃にさらされ、絶体絶命になったときに生まれたと推測されます(BC八六〇年頃)。Ⅱ歴代二〇章にはそのときの様子が記されます。ユダの王「ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主(ヤハウェ)に求め」(三節)、「ご覧ください……私たちの神よ……このおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません……どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです」(一一、一二節)と祈りました。
 私たちも自分の命が危険にさらされたときパニックに陥ります。そのとき心臓の鼓動が激しく鳴り、呼吸が浅くなります。そして身体全体が逃走の姿勢に移ります。これは危険を回避するために神が与えてくださった姿勢でしょうが、逃げようとすることが状況をさらに悪化させるという場合もあります。また、それとは反対に、背筋を伸ばして戦闘態勢に入る場合もありますが、戦おうとすることがかえって問題を大きくする場合があります。もちろん、暴走車が迫って来るようなときは、瞬間的に身体が危険を回避する方向に動き出すことは極めて大切ですが、私たちが日常生活で遭遇する多くの出来事は、「一息つく」ことでより的確な判断を下すことができるようになります。そして、深い呼吸の秘訣は何よりも、息を吐くことにあります。それは私たちにとって、自分のパニック状況をただあるがままに、神に訴えるという祈りです。
 私たちもこのユダの王ヨシャパテの祈りに倣って、自分の無力さと、どうしてよいか分からない気持ちを、全能の神にまず訴えることが大切です。「恐れ」を恥じるのではなく、「恐れ」を「祈り」に変えるのが私たちの信仰だからです。私も、むやみに逃げようとしたり、また戦おうとしたりして、問題を複雑にしてしまったことがたびたびあったと反省させられます。
 しかも、危険に対する身体の反応が習慣化されると、身体自体が歪んできます。少々乱暴な見方かもしれませんが、腰が曲がるのは逃げの姿勢が習慣化したもの、また腰痛は、背筋を伸ばして戦うかまたは環境に積極的に適用しようと無理しすぎた結果であるとも言われます。そして、両者に共通するのは、呼吸が浅くなっていることです。実は、私たちが「老化現象」と呼ぶ姿勢の歪みの多くのものは、身につけた習慣であると身体生理学の専門家は語っています(Thomas Hanna “Somatics" Perseus Books, Massachusetts, 1988 PP49-66)。ですから、私たちが神に向かって、構えることも飾ることもなく、自分の気持ちを正直に吐き出し、祈ることができることは、身体全体の機能を保つためにも大切なことなのです。
 ところでこのようにヨシャパテが祈ったとき、主(ヤハウェ)の霊が預言者に臨み、「この戦いは……神の戦いである……あなたがたが戦うのではない……主(ヤハウェ)の救いを見よ……彼らに向かって出陣せよ。主(ヤハウェ)はあなたがたとともにいる」(一四〜一七節)と告げられます。「それで……コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主(ヤハウェ)を賛美した」(一八、一九節)というのです。この詩篇のタイトル、「コラの子たちの歌」とはそれを指していると思われます。
 キリスト者がこの地で直面するのは、広い意味においてはすべて「神の戦い」と位置づけられるものです。なぜなら私たちがキリストの御名によってへりくだって神に祈るとき、神は私たちの味方となっておられるからです。そのとき私たちがとるべき姿勢は、恐れ退くことでもなく、また自分の力に頼ってむやみに戦いに出ることでもなく、「主(ヤハウェ)の救いを見る」ために、困難に向かって出陣することです。そして、この詩篇こそ、その時、私たちが口ずさむべき賛美でしょう。

最初に、「神はわれらの避け所、また力」(一節)と告白されますが、あなたにとっての神とは、どのような方でしょう?聖書は「初めに、神が天と地を創造した」という神ご自身の自己紹介から始まります。ところが、しばしば、被造物にすぎない人間が、創造主を忘れ、頼りにならない同じ被造物により頼むことから、多くの悲劇が始まるのではないでしょうか。これはお金に困ったとき、たとえば、自分の父親に相談することを恐れ、手元にあるティッシュペーパーのサラ金業者の電話番号をダイヤルするようなものかもしれません。しかし、神は、優しく、頼り甲斐のある父で、私たちが呼び求めるのを待っておられる方なのです。
 そのことを預言者イザヤは、「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る』……主(ヤハウェ)はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる」(イザヤ三〇・一五、一八)と記しています。
 ここで「立ち返る」とは、「悔い改める」とも訳されることばで、「神のもとに帰る」ことを意味します。目の前の状況が困難だからこそ、より恐るべき神のふところに飛び込み、静かにすることが、「救い」につながるというのです。また「信頼する」とは、「望む」とも訳されることばです。つまり、「力を抜いて、待ち望むときに、あなたがたは力を得る」と言われているのです。実際、私たちは、絶望的な状況の中に置かれていても、「希望」の光を見ることができると、思っていた以上の力を発揮することができます。そして「主(ヤハウェ)は恵もうと待っておられる……」とは、神は私たちを助け、救い出したいと「切望」しておられ、私たちが祈るのを待ち構えておられるという意味です。それは、神が何よりも私たちとの対話を望んでおられることの表れです。
 そして、この詩篇の一節後半の、「神は……苦しむとき、すぐそこにある助け」(一節)とは、以上すべてを簡潔に表現したことばです。「すぐそこにある」ということばの深みを味わっていただきたいと思います。

その上で、「それゆえ、われらは恐れない」(二節)においての「それゆえ」という接続詞も深く味わってみたいものです。自分で「恐れ」の気持ちをしずめるのではなく、あくまでも天地万物の創造主であられる神に目を向ける結果として、「恐れない」という告白が「与えられる」からです。残念ながら、「それゆえ」という転換点を忘れて、「信仰者は、恐れることはないはず……」などと、自分の感情を受け入れることができなくなっている生真面目なクリスチャンが多くいます。しかし、「恐れを祈りに変える」というプロセスを飛び越すような信仰は、自分の感性に暴力を加えることに等しいのではないでしょうか。恐怖感情は信仰の欠如ではありません!
 「たとい、地が変わり、山々が海に沈むほど揺らぐとも。たとい、その水がどよめき、あわだち、その勢いに、山々がふるえ動くとも」(二、三節)とは、私たちの足元が崩れ去ると思えるような状況の象徴的表現です。これは地震や火山噴火、津波や洪水など、私たちをいつ襲うかもしれない最大の自然災害を思い浮かべることを意味します。それは私たちの心にとてつもない恐怖を引き起こして当然の出来事ですが、ここには、「それでも、われらは恐れない」という告白が込められています。それは、私たちのいのちを守り支えているのは、この大地である以前に、天地万物の創造主であられることが分かっているからです。これも、私たちの内側にある「信仰の力」から生まれる告白ではなく、聖霊ご自身が与えてくださる奇跡と呼ぶことができましょう。


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