3「静まれ(やめよ)。そして、知れ」

「来て、主(ヤハウェ)のみわざを見よ」(八節)とは、先に述べた神が与えた現実の勝利の跡を見ることの勧めです。敵陣を見ると「主は地に荒廃をもたらした」(新改訳)とも見えますが、これは「地の果てまで戦いをやめさせ」るための必要な手段でした。しかし、これは現代の私たちにとっては、キリストの復活による死の力への勝利を意味しますから、ここは「主は地上に驚異を置かれた」と訳してもよいかと思われます。キリストにある者は、死を乗り越えたいのちが約束されているので、死をもたらす暴力に屈する必要はありません。その意味で、イエスはご自身の復活によって、「弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた(九節)と言えるのです。
 一〇節は「新改訳」では、「やめよ」と訳されますが、これは名訳です。この原文の中心的意味は、「そのままにしておく」ことで、「力を捨てよ」という意味が込められているからです。
 それは、たとえば、水中で溺れそうなとき、もがけばもがくほど沈み、力を抜くことによってかえって浮き上がるようなことに似ていると思われます。それと同じように、私も自己弁護に一生懸命だったとき、ふと「神の支えは、沈むに任せるときにかえって体験できる!」と示されたことがありました。ですから、私たちの信仰の日常用語としては、「静まれ」という訳の方が分かりやすいかとも思われます。実際、多くの英語聖書では、「Be still」と訳されています。なお、文語訳は、「汝等しづまりて我の神たるをしれ」とリズムよく訳されています。
 なおここは原文で、「そして、知れ」という命令が続き、その内容が、「わたしこそ神。国々の上におり、地のはるか上にる」と記されます。「わたしこそ神」とは、ご自身こそが「初めに、神が天と地を創造した」と紹介されている全能の神であるという力強い宣言です。また、「上におり……上に在る」は、原文では同じひとつの動詞の繰り返しで、「あがめる」とも訳されますが、本来は、「高い」の派生語です。ここでは、神が万物の創造主として、今もすべての政治、地の出来事の上におられ、すべてを支配しておられるという意味が込められていると解釈できます。このような「生ける神」の「生きた」ご支配に関して、イエスは、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません……」(マタイ一〇・二九)と言われました。
 私たちも目の前の現実を変えようとして必死に動き回り、かえって問題を深くしてしまうようなことがあるかもしれません。そのとき、主の御前に静まり、この問題も全能の神の御手の中で起こっているという霊的現実をまず受け止めることからすべてを始めるべきでしょう。

ところでその後、不思議にも、神が真中におられるはずのエルサレムは滅ぼされ、神の住まいとされる神殿も廃墟とされました。それは、ユダの民が周辺諸国の、偶像礼拝の習慣に毒され、神を求めなくなった結果です。そのため、神の栄光は、都と神殿を去ってしまいました。それにも関わらず、彼らはそれに気づかず、「神の都は揺るがない」と教条的に言い張り、圧倒的なバビロン軍を前に人間的な戦争準備に励み、また南のエジプトに助けを求めたりしながら、神の御前に静まる時間を惜しんでしまいました。静まることを忘れた結果、彼らは破滅したのです。
 今、私たちのからだも既に、「神から受けた聖霊の宮」(Ⅰコリント六・一九)とされているはずですが、もし、思いとことばと行いのすべてにおいて、「イエスは主である」ということを否定し続けるなら、そのような人のことを、イエスも終わり日に、「そんな者は知らない」(マタイ一〇・三三)と言われると警告されました。そのことに関し、使徒パウロも、「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサロニケ五・一九)と言っています。私たちも聖霊の宮を、空虚な宮にする可能性があるのです。
 人は、基本的に自分の肉の思いにとらわれ、誤った衝動に駆り立てられますから、繰り返し主の前に静まり、この世界のすべてを支配しておられる主のみわざに思いを向ける必要があります。この世界を暗くしているのは、働きの悪い人や生産能力の低い人ではなく、誤った方向に熱い情熱を傾けながら人々を動かしている人です。私も振り返ってみると、何と無駄な働きや問題をこじらせるような動きが多かったことかと反省させられます。ですから、古代教会のある指導者は、「忙しさとは、怠慢である」と言い切りました。

宗教改革者マルティン・ルターは改革に着手して十年後、精神的にも肉体的にも瀕死の状態になりました。熱狂主義者が聖霊の御名で秩序を否定し、カトリック勢力は猛烈な反撃に転じ、聖書教師は育たず、ペストの流行で長女が病死し、トルコ帝国が東から攻め、彼自身もサタンの誘惑に圧倒され神経衰弱に陥りました。その時、この詩篇に慰められ、賛美歌「神はわれらが砦」を記しました(三五八頁参照)。これは宗教改革の進軍歌とも呼ばれますが、実際は、祈りの歌です。
 そこでは、サタン勢力の圧倒的強さと私たちの無力さの対比が描かれ、私たちに「代わって」(「ともに」ではない!)戦ってくださる万軍の主キリストへの信頼が歌われます。サタンの勢力がどれほど強く見えても、その力は、神のみことばひとつで砕かれるからです。四番の原文の歌詞、「わが命も……妻も子も奪うに任せよ」は衝撃的です。サタンは、死の脅しで人々を動かしますが、彼らには「からだを殺す」ことはできても、「たましいを殺せない」(マタイ一〇・二八)からです。
 なお、ルターはその後二十年生かされ、福音的な教会の基礎を築きました。最愛の家族を守る人間的な努力さえも「やめよ!」と歌った人を、イエスはその家族ばかりか、その教会と国さえも守り通してくださったのです。
 この世の人に対して、肉の力によって戦う者は、結果的に、人の奴隷になってしまいます。より強い人の助けに頼らざるを得なくなるからです。サタンは、人を自分の土俵に入れて戦わせ、自分の手下を増やそうと常に画策しています。しかし、私たちは、「祈る」ことによって、彼らを、神の前に立たせることができます。そのとき初めて、彼らに勝ち目はなくなるのです。


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