3「神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた、打ちひしがれた心」

ダビデが、「救いの喜びの回復」(一二節)を願ったのは、自分だけのためではなく、「罪人たちの回復」(一三節)のためでもあります。彼はその後、試練を受けながらも、神の御顔が自分に微笑んでいるのを確信できたからこそ、自分の恥をさらし、それを見本として「そむく者たちに(神への)道を教える」ことができたのではないでしょうか。
 そして、「血の罪から助け出してください」(一四節)では、原文は、「助けて出して!」という嘆願から始まっています。彼は、「このような流血の罪を二度と犯しません」と約束する代わりに、誘惑に陥らないよう助けられることを願っているのです。
 しかも、神への賛美さえも、「主(アドナイ、主人)よ」と呼びかけつつ、「この唇を開いてください」という願いから始め(一五節)、自分の中に神のみわざがなされることを望んでいます。
 ところで、「いけにえを喜んでくださいません……」(一六節)とは、いけにえを否定するものではなく、「今、私(ダビデ)がささげても……」という前提があります。彼は、富と権力によって苦労せずに最上のものをささげることができましたが、その力のために恐ろしい罪を犯しました。
 それゆえ神は彼に、「いけにえ」として、何よりも「砕かれた霊、砕かれ、打ちひしがれた心」(一七節)を求めておられることを示されました。これは人間的には、「軽蔑」の対象に過ぎない心の状態で、本来は、「徳」と見られるような性質ではありません。しかし、「神はそれをさげすまれない」というのです。
 私たちには、自分が謙遜で敬虔な人であると見られたいという誘惑があります。しかし、そこから偽善が生まれます。ところが、ひとりの取税人が、神の聖所から遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて「こんな罪人の私をあわれんでください」と言ったとき、イエスはこの人を喜んでくださいました(ルカ一八・一三、一四)。しばしば、「私は良い人間だ……」と自他ともに自負している人は、自分の力に頼って、自分の自我によって、聖霊の働きを阻害してしまいがちではないでしょうか。

そして神が契約の箱の置かれた「シオンを受け入れ、いつくしみをほどこしてくださる」とき、「いけにえを喜びとされ」るというのです(一八、一九節)。それはエルサレム神殿が建てられるときを指しますが、驚くべきことに神殿を完成したのは、バテ・シェバから生まれたソロモンでした。まるで神は、彼女がウリヤの妻だったことを忘れたかのようです。そこに神がダビデの「罪から御顔を隠し、咎の記録を拭い去ってくださった」(九節)ことの証しを見ることができます。
 イエスは、「心(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ五・三)と言われました。ダビデは自分の心の貧しさを痛感しましたが、神はそれをさげすむ代わりに受け入れ、彼が真の賛美といけにえをささげられるように変えてくださいました。
 神の息吹が私を生かすためには、まず私自身が自分に死ぬ必要があります。神の御前に沈黙しながら、自分の心の混乱が迫って来ることを恐れる必要はありません。それこそ、聖霊のみわざに心を開く出発点です。葛藤や怒り、不安を神にゆだねるとき、神の息があなたのうちに息づきます。

 

パウロは、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた……私はその罪人のかしらです」(Ⅰデモテ一・一五)と告白しましたが、「罪人のかしらが、伝道者のかしらとされた」というのが、ダビデやパウロの記録です。ですから、私たちはどんな過ちを犯しても、「これで私の未来はなくなった……」などと失望する必要はありません。何度でもやり直すことができます。
 イエスは兄弟の罪を、「七度を七十倍するまで」赦すように命じられましたが、それは神ご自身がそうしてくださるからです。私たちも、キリストなしには、無に等しい存在ですが、聖霊のみわざに身をゆだねるなら、罪人たちに神の道を教え、神のみもとに回復させるほどの影響力を発揮できるのです。


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