2「神よ。きよい心を、私に創造し」
「たしかに、私は生まれたときから、答の中にあり、母が私をみごもったときから罪の中にありました」(五節)とは、ダビデが自分の罪を振り返ったときに導かれた大切な真理です。それは、自分の意思の力では、同じ過ちを繰り返さざるを得ない、根深い罪の性質が自分の中に生まれながら宿っていることを認めることです。
ダビデが罪を犯したきっかけは、「その女は非常に美しかった」(Ⅱサムエル一一・二)としか描かれていません。ダビデのそれまでの誠実な歩みを見るとき、「あの方が、そんな非道な事をするはずがない。何かよほどストレスがかかっていたのでは……」とでも言いたくなります。しかし、彼は最も心に余裕があったとき、この罪を犯してしまったのでした。つまり、これは、私たちも何かのきっかけがあり、そこに社会的な歯止めがかからなければ、何をしてしまうか分からないところがあるということを示しているのではないでしょうか。
実際、私たちも心の中で姦淫や殺人の思いを抱いても、結果を恐れて実行しないという面があるかもしれません。私たちは罪を犯したときに、「ちょっと魔がさしてしまって……」と言い逃れしたくなりますが、そこには、本来の自分はそんな悪い人間ではないと言いたい思いがあります。それに対してダビデの告白は、「悪いのは私自身である以前に、アダムの罪にある」と言っているかのようですが、それ以上に、「私の中には、自分で抑え切れない罪の性質が生まれながら宿っている。神のあわれみなしには、自分はとうてい神の前に立つことができるような者ではない……」と謙遜に認めたものなのではないでしょうか。
多くの人は、とんでもない罪を犯した時、とてつもない自己嫌悪や自暴自棄に陥ってしまいがちです。しかし、自分の罪がアダムに由来することを知った者は、自分の罪を正直に認め、大胆に神に向かって許しを願う勇気を持つことが出来るのではないでしょうか。ダビデがこのように大胆に自分の罪を公開したのは、私たちが自分の罪に絶望して心を閉ざしてしまうことがないためです。誰も自分の罪を言い訳する必要も、また絶望する必要もありません。
その上で彼は、「たしかに、あなたは心の内側の真実を望まれ、隠された部分に、知恵を授けてくださいます」(六節)と告白します。私たちには、うわべを真実に見せかけることはできても、心の奥底を自分の力で変えることはできません。それで彼は、心の内側の真実を望まれる神ご自身が、心の隠された部分にご自身の「知恵」を授けてくださることを期待します。これは先の詩篇一八篇二八節の解説で記したように、神が私たちの心の至聖所である「霊」の部分にご自身の御霊を授けてくださることを指すと思われます。そのことが一〇〜一二節で展開されます。ダビデは自分の罪の性質がアダムに由来することを自覚したときに、不思議にも、そこにおいて神ご自身の再創造のみわざを期待するように導かれたのです。
このことに関して、使徒パウロは、「私たちは……隠された奥義としての神の知恵」を語ると述べつつ、「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません……ところが、私たちには、キリストの心があるのです」と大胆に告白しました(Ⅰコリント二・七、一一、一六)。これこそ新約の時代の恵みです。私たちは自分の内側にある罪の性質を自覚すれば自覚するほど、神が私たちの内側の「隠された部分」に、神の「知恵」、「キリストの心」を住まわせてくださったことの恵みの深さを理解できます。なおパウロは「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ローマ八・九)と言っていますが、それはすべてのクリスチャン(キリストのもの)には、キリストの御霊が既に宿っていることを示しています。
「ヒソプをもって罪を除いてください……」(七節)において、「ヒソプ」とは、過越のいけにえの血を、かもいと門柱に塗る際に用いられた植物ですが、これは自分の努力ではなく、神の主導ではじめて「私」が「きよくなれる」と告白したものです。そして、これは、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ一・七)というキリストの十字架を指し示すものでもあります。
しかも、「私を洗ってください。そうすれば、雪よりも白くなれます」(七節)とは、神が私たちを「洗い」「きよめ」てくださるみわざが徹底したものであることを指し示しています。私たちはその意味で、神のみわざを過小評価しがちではないでしょうか。
そして、「楽しみと喜びとを、私に聞かせ、あなたが砕かれた骨を、喜び踊らせてください」(八節)と祈られます。神が私たちの罪を指摘してくださるのは、「私は自分の力で立つことができる」という誇りを砕くためだからです。人の罪の始まりは、自分が神のあわれみなしに生きることができると自負したところにありました。その傲慢が砕かれ、私たちが謙遜に心の耳を開くとき、神の「楽しみと喜び」を聞いて、「喜び踊る」ことができるようになるのです。私たちは不思議に、自分の罪を知れば知るほど、赦しの恵みの大きさに感動できるからです(ローマ五・二〇参照)。
なお、「御顔を、私の罪に、お向けにならないで、すべての
一〇〜一二節では、私たちを内側から造り変える聖霊のみわざが記されます。これは旧約の中に隠された新約の希望の福音です。これから四百年余り後、預言者エゼキエルは神ご自身の約束を「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」(三六・二六)と記していますが、新約の時代とは、これらの預言が成就したときを意味します。
ダビデは最初に「きよい心を、私に創造し」(一〇節)と祈りますが、それは「光があれ」とのひとことで光を創造された主による、再創造のみわざを期待することです。ただし、医者が患者の同意なしに手術を行えないように、私たち自身がそれを心から願う必要があります。そして、そのことが「揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください」と言い換えられます。ここで、「揺るがない」とは情欲や欲望に惑わされずに創造主を求める「霊」のことです。
彼は続けて「御顔の前から、私を投げ捨てず、あなたの聖い霊を、私から取り去らないでください」(一二節)と祈ります。「聖い霊」とは、「あなたがたの神、主(ヤハウェ)であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」(レビ一九・二)とあるような神の聖さに倣う「霊」を意味します。そこでは隣人愛が説かれていますが、ダビデはこれに真っ向から反したことを行いました。それで彼は、「御顔の前から、投げ捨て」られても仕方がない者でしたが、かって主の油注ぎとともに受けた「主(ヤハウェ)の霊」(Ⅰサムエル一六・一二、一三)を「取り去らないでください」と願ったのです。
最後の祈りは、「御救いの喜びを、回復させ、自由の霊が、私を支えますように」(一二節)です。「自由の霊……」とは強制や報酬によってではなく、「救いの喜び」によって自主的な思いで神に仕えることができる「霊」が、自分を背後から支え、動かしてくれるようにとの願いです。
ジェームズ・フーストン(彼との出会いは詩篇八・四の解説参照)は、あるキリスト教組織の権力闘争が頂点に達していたしばらくの間、「呼吸するたびに」、一〇〜一二節の祈りが「私の全身で鼓動した」と証ししておられます。それは私たちが、「自分は神に仕える者なのだ」という「妄想」の中で、自分の思いを正当化し、競争者を否定し、「破壊と憎しみ」を広げることになりかねないからです(ジェームズ・フーストン著『喜びの旅路』長島勝訳、いのちのことば社刊、二〇〇七年、一八七、一八八頁)。しかし、「神よ。きよい心を、私に創造し……」という祈りには、神が自分の思いを砕き、ご自身の御霊を日々新たにしてくださるのでなければ、自分の中には何の良いものもないことを認める謙遜な思いがあります。私が以前いた日本福音ルーテル教会ではこの祈りを奉献唱として、献金に合わせて唱和していました。それは、私たちが神に仕えようとするたびごとに、覚えるべき新りだからです。
ダビデの罪はアダムの罪と基本は同じです。アダムは「神のかたち」に創造されながら、「神のようになる」という誘惑に負けました。ダビデはほんの少し前には、主の契約の箱をエルサレムに迎え入れながら、喜び踊り、「主(ヤハウェ)は王である」(詩篇九六・一〇)と謙遜に告白していましたが(Ⅱサムエル六章、Ⅰ歴代一六章参照)、このときは神からあずかった権力を自分の欲望と名誉のために乱用しました。自分を世界の中心、善悪の基準に置くという点でこのふたりはまったく同じです。ダビデは自分の中にアダムが住んでいることを自分の罪を通して悟り、自分の罪の問題は自分の意思の力では解決できないことを悟ったのです。
つまり、彼は自分の罪を通して、キリストの十字架による赦しと、聖霊による新生を預言する者とされたのです。私たちは残念ながら、同じ過ちを何度も繰り返します。しかし、ダビデはひとつの大きな罪によって、神の救いのご計画の全体像を見るように導かれました。私たちも自分の過ちを後悔するばかりでなく、真に自分の弱さ、罪深さを知り、神の霊に心を開くことが大切ではないでしょうか。
なお、この「霊」とはヘブル語で「ルーアッハ」ですが、発音するときに喉仏が振動することばです。そこに激しい息の響き、生命の躍動が表されているとも言われます。つまり、「神の霊」のあるところには、真のいのちの喜びと躍動があるのです。