1「私のそむきをぬぐい去り、私のとがを洗い去り、私の罪からきよめてください」

この詩篇には明確な背景の説明があります(Ⅱサムエル一一、一二章参照)。ダビデは、忠実な家来ウリヤからその妻バテ・シェバを奪い取ったあげく、偽装工作に失敗すると、計略にかけて彼を死に至らしめ、約一年近くもの間、模範的な王のふりをしていました。
 彼は、「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました……」(詩篇三二・三)と別の詩篇で告白しているように、確かに、良心の呵責に苦しんではいたはずなのですが、自分から罪を認めたわけではありませんでした。神はそんな彼に預言者ナタンを遣わし、悔い改めに導きました。そこでこの詩篇が生まれました。

その初めは、「あわれんでください」(お情けを!)との叫びです。彼は、何の弁解もせずに自分の罪を認め、「神よ」とすがりついています。その際、「あなたの慈愛(真実、ヘセッド)によって」と、自分の不真実を棚に上げるかのように、神がかつて彼に、「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル七・一六)と言われたその契約にすがろうとしています。
 そればかりか、「私のそむきの記録を拭い去ってください」と懇願します。「拭い去る」とは、羊皮紙に記されたインクを洗い流して、記録をなくしてしまうことです。さらに彼は「私のとがを、ことごとく洗い去り、私の罪から、きよめてください」(二節)と訴えます。これらは、「あの過ちをなかったことにし、最初の親密な関係に戻させてください」と、不倫を忘れることを願うのと同じような図々しい訴えです。
 しかし、この大胆な祈りこそ、神のみこころではないでしょうか。なぜなら、「罪の赦し」とは、「神が罪を忘れてくださること」として描かれている箇所があるからです。事実、後に神はイスラエルの罪に対して、「わたしは……あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ四三・二五)と言われ、また、「わたしは彼らのとがを赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」(エレミヤ三一・三四)と言っておられます。
 ところでダビデは一、二節において、自分の過ちを三つの類語を用いて多様に表現しています。第一の「そむき」とは「神の基準への反抗」を意味します。第二の「とが」とは「基準をねじまげる」ことで、「罰」を含む概念です。第三の「罪」とは、「基準に到達しないこと」または「まとを外すこと」を意味します。そしてこれらのことばを用いた三つの願いに共通することは、神との関係を隔てるものを取り去って、神との親密な関係の回復を求めることです。

ただし、彼は自分の記憶から過去を消そうとしているのではなく、「この私は、自分のそむきを知っています。私の罪は、いつもこの目の前にあります」(三節)とも告白しています。そればかりか、彼は自分の卑劣さを、世界中の人にオープンにしてしまいました。多くの人は罪の結果として自分の立場がなくなることを恐れますが、彼は神との関係だけを見ようとしています。
 しかも彼は、自分の罪を、何よりも創造主に対する反抗と認め、「あなたに……罪を犯し……ました。それで、あなたが宣告されるときは義であられ、さばかれるとき、純粋であられます」(四節)と告白します。これは、主がダビデの罪を指摘した際、「わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす……」(Ⅱサムエル一二・一一)と、「さばき」を宣告されたことを指しています。彼はそれを受け止めたからこそ、息子アブシャロムによって都を追われるときにも、その悲惨な現実の中で謙遜に振る舞うことができました。もちろん、ダビデはさばきが回避されることを切に祈っていましたが、同時に、「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもする」(ガラテヤ六・七)という原則をも受け入れたのでした。
 殺人を犯した人が、自分の身をもって罪を償うのは当然のことでしょう。しかし、神の赦しを確信した人は、たとえ死刑台に上っても、人々から罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせられようとも、「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ三・二二)という神の語りかけを心に聴き続けることができるのです。それゆえ、私たちはどんな愚かな過ちを犯そうとも、自暴自棄や自己嫌悪に陥らず、明日に向かって誠実に生きることができます。たとい、あなたが自分の罪の実を刈り取らざるを得ないとしても、神はあなたとともに歩み、その刈り取りを助けてくださいます。全能の神があなたに微笑んでおられることに勝る恵みはありません。


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