4「あなたの光とあなたのまことを遣わし、導いてください」

そして著者は、まわりの現実に再び目を向けながら、「神よ。私のためにさばいてください」(四三・一)と必死に祈ります。聖書の中では、「さばき」ということばはしばしば、神の敵、また信仰者の敵に対して用いられていますが、ここでも「私の訴えを取り上げ……欺きと不正の人から、助け出してください」と、神が私の味方となってさばいてくださるようにと訴えています。
 そして、「あなたこそ、私の神、私の隠れ場なのです」(二節)と告白しながら、再び「なぜ、私を拒まれたのですか……」と自分の悲惨な現実を訴え続けます。それは自分が敵の前にいかに無力なものであるかを謙遜に認めることでもあります。ですから、それに続いて、「あなたの光と、あなたのまことを、遣わしてください」(三節)と願いました。私たちにとっては、イエスこそ、「光」であり、「まこと」です。そしてこれは、イエスと同じ助け主である聖霊が遣わされるようにとの祈りでもあります。
 私たちは、偽りの希望を捨てて、古い自分に死ぬことがない限り、真の意味で心の奥底に隠された絶望から抜け出すことはできません。しかし、なんと多くの人々が、表面的な笑顔の奥底に、底知れぬ絶望感を抱えながら生きていることでしょう。その意味で、自分に死ぬことこそ、いのちの始まりということができます。そして、それこそ、サタンの敗北、神の勝利なのです。
 私たちの真の敵は、人間ではなくサタンです。十字架は、サタンの勝利と見えましたが、復活で、すべてが逆転しました。この地に見えるのは、サタンの最後の悪あがきに過ぎません。神の正義の実現は目前です。

作者は、神の「光」と「まこと」によって、神の神殿に戻され、喜びと感謝に満ちて礼拝することを願います(三、四節)。同じように、私たちにとっての真の希望は天上のエルサレムです。
 私たちは、この地にいる限り、旅人であり寄留者として、神との交わりへの「渇き」を持ちつづけます。しかし、神の御顔を直接に仰ぎ見るという「救い」は、既に保証されています。ですから、偽りの「新しい時代」(ニューエイジ)または「水瓶座の時代」が提供する霊的な恍惚感に惑わされる必要はありません。私たちは、「渇き」を覚えたまま、「絶望」から逃げる必要はありません。
 しかも、神の世界に関心を持ち、人の痛みに耳を傾け、ともに「うめく」ことから「愛」が始まります。この世界には、最初の人間アダムの罪によって弱肉強食の争いが生まれました。そのため、「被造物全体が今に至るまでともにうめき、ともに産みの苦しみをして」います。そして、その世界の「うめき」を聴きながら、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら…… 待ち望んでいる」と言われます。つまり、御霊を受けたものは、「うめく」というのです。そして、そこには大きな希望が生まれます。なぜなら、そのとき「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」からです(ローマ八・二二、二三、二六)。ここには、「被造物」、「私たちの心」、「御霊」による「うめき」の三重奏とも言える状態が見られますが、それは、世界に愛が広がり、世界に平和が実現するという過程でもあります。

なお、四二篇五節では「御顔の救い」と記されていたものが、四二篇一一節とこの最後では「私の顔の救い」と描かれています。それは、人々のあざけりを受け、うなだれている顔が、「神の御顔」を仰ぎ見ることで、喜びの「顔」に変えられ、神の栄光を反映して、輝き出すことを意味します。「救い」が顔に表されるというのです。そして、これは天国まで繰り返されるプロセスなのです。

私たちは、矛盾に満ちた地に遣わされるのですから、落ち込み、絶望感を味わうことがあるのは当然です。しかし、それに呑み込まれて、自己憐憫や被害者意識の中に閉じこもる必要はありません。自分の気持ちを優しく受けとめつつ、「なぜ、うちしおれているのか……」と、自分のたましいに語りかけ、その気持ちを神にゆだねることができます。イエスご自身がこの詩篇を生きてくださいました。私たちもその御跡に従います。暗闇は、光を輝かせる舞台に過ぎないのです。


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