3「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか」という絶望
この詩篇の第二部は、「私のたましいは……うちしおれています」(六節)との告白から始まります。彼は、神の神殿があるエルサレムから遠く離れた当地の北の果て、ヘルモン山のふもとに置かれているのですが、そのような絶望の中だからこそ、「それゆえ、あなたを私は思い起こします」とあえて言いながら、いつでも、どこでも、神を思い起こすことができることを示しています。
その際、かつて水のない渇きを感じた彼は、反対に、水が多すぎることの恐怖、大滝に呑み込まれる恐怖を味わいながら、それを「あなたの波」と呼び、神のさばきと受け止めています(七節)。
そして、そこで突然、作者の気持ちは、「昼には、主(ヤハウェ)が、『慈愛』(へセッド、変わらぬ愛)を施してくださいます。夜には、主の歌が、私とともにあります」(八節)と不思議な感謝へと百八十度転換しています。そして、「私のいのち」は、この神との交わり自体、「祈り」にあると告白しています。つまり、彼は、「もう駄目だ!」と思ったその時、神を身近に体験できたというのです。それは、絶望と神の臨在の体験が、しばしば隣り合わせにあることを示しています。
さらに、その時こそ、人は自分の世界に閉じこもらず、「なぜ、私をお忘れになったのですか?なぜ、私は敵の虐げに、嘆いて歩かなければならないのですか?」(九節)と自分の気持ちを正直に訴えることができます。それはたとえば、「私はあなたに信頼しているからこそ、人々から憎まれ、そしられているのです。こんな中で、なぜあなたは沈黙しておられるのですか?」と神に問いかけることではないでしょうか。
イエスも十字架で、「もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい」(マタイ二七・四三)とあざけられた時、「私の神、私の神よ。なぜわたしをお見捨てになったのでしょう」と叫ばれました。それは詩篇二二篇一節そのものですが、この九節の叫びと基本的に同じ意味です。
十九世紀初頭のドイツの音楽家フェリックス・メンデルスゾーンは詩篇四二篇のみことばを美しいカンタータで表現しています。そこでは、八節の信頼の告白を、慰めに満ちた男性合唱で歌われるのに重ね合わせるように、悲しいソプラノの調子で、九節の「なぜ……」という神への訴えが繰り返し歌われます。私たちの心の中では、神への信頼の告白と、神への嘆きの訴えは、決して矛盾するものではなく、交互に生まれるものと言えるのではないでしょうか。
一〇節では、三節にあった敵対者のあざけりの声が繰り返されます。それは神を知らない者にとっては、信仰者の嘆きの訴えは、神がおられないことのしるしにしか受け止められないからです。
そのような中で、一一節では五節のことばが繰り返されますが、ここでは、「うめいているのか?」という疑問に「なぜ」が加わって「私のたましい」の苦悩がさらに強調されています。ただし、作者は、その絶望感に圧倒されることなく、自分のたましいに対し、力強い父親のように振る舞い、「神を、待ち望め」と語りかけます。つまり、自分のたましいの現実をまず優しく受け止めた上で、絶望感に呑み込まれないようにと励ましているのです。これは聖霊に導かれた自分が、肉に支配されたもうひとりの自分に向かって語りかけているとも解釈できましょう。
キルケゴールは、先の文章に続き「けれども、絶望しているということは、最大の不幸であり悲惨であるにとどまらない、それどころか、それは破滅なのである」と言っています。つまり、絶望できることは良いことでも、それに留まり続けることは破滅だというのです。
メンデルスゾーンは先の曲に続き、「なぜ、うちしおれているのか。なぜ……うめいているのか」と静かに繰り返し歌いながら、その後、急に調子が変わり、力強いフル・オーケストラの演奏と総合唱で「神を、待ち望め。私はなおもたたえよう」と高らかな明るい賛美で終わるように作曲しています。つまり、「うめき」の声は、喜びの賛美への導入となっているのです。
私たちもこの詩篇に自分の思いを潜め、それに共鳴しつつ、自分の心の底にある絶望感に耳を傾け、「私のたましいは……うちしおれています」(六節)と告白するとき、不思議が起こります。イエスがこれを祈られ、十字架でその気持ちを味わい尽くされたからです。そのとき、あなたはイエスと一体化しているのです。そして、暗闇の中でイエスに出会うとき、そこには反対に、喜びと希望があふれてきます。ですから私たちは、この世の悲惨に目を閉じることなく、絶望的な状況にも向かって行けるのです。