2「私のたましいよ。なぜ、うちしおれているのか?」

この作者は、今は、異教徒に囲まれながら、「お前の神はどこにいるのか?」などとあざけられ、昼も夜も自分の涙を食べ物にするような悲惨の中に置かれています(三節)。その中で、かつて自分がエルサレム神殿での礼拝をリードし、「喜びと感謝の」賛美の中を先頭に立って歩んでいた体験を、遠い昔のことのように感じ、たましいを注ぎだして祈っています(四節)。
 その際、著者は、「私のたましいよ。なぜ、うちしおれているのか?」と、自分のたましいの現実を正面から受けとめようとしています。なお「うちしおれる」のギリシャ語七十人訳は「深い悲しみ」という意味のことばが用いられていますが、イエスのゲッセマネの園でのお気持ちも、「わたしのたましいは深い悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ二六・三八私訳)と表現されています。つまり、私たちは自分が絶望感に圧倒されることを恥じる必要はないのです。それは、イエスご自身が私たちに先立って味わっておられた感情だからです。

多くの人々は、絶望を意識化できないからこそ、無意識に閉じ込められた絶望感に駆り立てられ、目標もなく走り回り、この世の成功や快楽によって心を満たそうとしているのかもしれません。
 あれだけの事件を起こしながら、オウム真理教の流れを汲む宗教には多くの若者が集ってきます。上祐氏は、かつてのホームページで、「瞑想によって、体内に眠っている霊的なエネルギーが覚醒し、この世の何物でも味わえないような幸福感、歓喜を体験し、さらに進むと自分への囚われから全く自由になり、様々な欲望がなくなって、完全な静寂の境地、不動の心が得られる。そうなると、逮捕され、人に裏切られ誹謗中傷されても、苦しまなくなる……」と語っていました。
 しかし、これは麻薬の作用と似ていないでしょうか。これと対照的に、キルケゴールは、「絶望は死に至る病である」と言いつつ、同時に「絶望できるとは、無限の長所である」と言っています(「世界の名著」40 キルケゴール著『死に至る病』桝田啓三郎訳、中央公論社刊、一九六六年、四三八頁)。
 最近、普通の家で育った若者が簡単に犯罪に走りますが、それは「悩みを抱えられなくて、すぐにキレてしまう」からだと言われます(生島浩著『悩みを抱えられない少年たち』日本評論社刊、一九九九年参照)。もし、世界の矛盾に目を開き、人の痛みの声に耳を傾け、自分の心の闇を直視するなら、絶望せずにはいられないとも言えます。それでも平安なのは、心が麻痺した結果かもしれません。愛は人の痛みへの共感から生まれます。しかし、オウム真理教の悲劇などに見られるように、心が麻痺した人によって、恐ろしいほどの反社会的な行動が正当化されるのです。


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