1「私のたましいは、神に、生ける神に、渇いています」
作者は、自分の心の中に、「鹿が深い谷底の水を慕いあえぐ」(一節)ような、激しい「渇き」があると告白します。当地での日照りでは、「若草がないために、野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる」(エレミヤ一四・五)ようなことがあったほどで、鹿の渇きは切実でした。そして、その水は深い谷底にあり、鹿はそれを遠くに見て、「慕いあえぐ」ことしかできない苦しみの中にあります。同じように、作者は、「生ける神」を遠く感じて、「渇いて」いるというのです(二節)。
ここで、「いつになったら私は行って、神の御顔を仰ぐことができるでしょう?」と嘆いているのは、彼がエルサレム神殿とその礼拝の交わりから遠ざけられ、異教徒たちの間に住み、一日中「おまえの神はどこにいるのか?」とあざけられていたからです。
現代は「心の時代」と言われ、二千年間続いた
しかし、現代の対立構造は、聖書の教えの限界を示すものではなく、近代合理主義思想、科学技術万能思想の限界を示すものと言えましょう。そして、残念ながら、多くの人々はその枠組みを無意識に受け入れているため、聖書の豊かさを読み取ることができなくなりがちだと思われます。
ところが、詩篇を読む人は、そこにある「心」や「感情」の描写の豊かさに感動し、そのような誤った教えに振り回されることはないでしょう。そして聖書は、三千年前から、私たちの心の底にある渇きは、神への渇きであると語ってます。たとえば今から千六百年前のアウグスティヌスという有名な神学者は、放蕩な生活に溺れ、恍惚体験を売り物にする宗教に走ったあげく、母の信じる真の神に立ち返りました。その際彼は、神に向かって次のように告白しました(「世界の名著」16 アウグスティヌス著『告白』山田晶訳、中央公論社刊、一九七八年、五九頁)。
「あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから、私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」