1「私のたましいは、神に、生ける神に、渇いています」

作者は、自分の心の中に、「鹿が深い谷底の水を慕いあえぐ」(一節)ような、激しい「渇き」があると告白します。当地での日照りでは、「若草がないために、野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる」(エレミヤ一四・五)ようなことがあったほどで、鹿の渇きは切実でした。そして、その水は深い谷底にあり、鹿はそれを遠くに見て、「慕いあえぐ」ことしかできない苦しみの中にあります。同じように、作者は、「生ける神」を遠く感じて、「渇いて」いるというのです(二節)。
 ここで、「いつになったら私は行って、神の御顔を仰ぐことができるでしょう?」と嘆いているのは、彼がエルサレム神殿とその礼拝の交わりから遠ざけられ、異教徒たちの間に住み、一日中「おまえの神はどこにいるのか?」とあざけられていたからです。

現代は「心の時代」と言われ、二千年間続いたうお座から水瓶みずがめ座の時代への幕開けとさえ言われることがあります。「魚」は、初代教会のシンボルでしたから、それはキリスト教の時代の終わりを宣言することで、「ニューエージ(新しい時代)・ムーブメント」と称される様々な危ない教えが広まっています。宗教団体アレフ(前オウム真理教)前代表の上祐史浩氏などは、ユダヤ、キリスト教の流れもイスラム教の流れも、「外側の幸福」を目指して対立をますます激化させているが、「内側の幸福」は東洋の神秘思想に求められ、「次のアクエリアス(水瓶座)文明に至っては、その対立による苦しみ、これからその反省をもとにして、統合された世の中が出てくる」と語っています(上祐史浩著『上祐史浩が語る苦悩からの解放』白順社刊、二〇〇二年、四二〜六〇頁)。その後の彼らの動向を見るときに、彼らが宗教的統合の先駆けになるなどと信じる人はまれかと思いますが、根本において同じような信念を持っている日本人は多いのではないでしょうか。
 しかし、現代の対立構造は、聖書の教えの限界を示すものではなく、近代合理主義思想、科学技術万能思想の限界を示すものと言えましょう。そして、残念ながら、多くの人々はその枠組みを無意識に受け入れているため、聖書の豊かさを読み取ることができなくなりがちだと思われます。

ところが、詩篇を読む人は、そこにある「心」や「感情」の描写の豊かさに感動し、そのような誤った教えに振り回されることはないでしょう。そして聖書は、三千年前から、私たちの心の底にある渇きは、神への渇きであると語ってます。たとえば今から千六百年前のアウグスティヌスという有名な神学者は、放蕩な生活に溺れ、恍惚体験を売り物にする宗教に走ったあげく、母の信じる真の神に立ち返りました。その際彼は、神に向かって次のように告白しました(「世界の名著」16 アウグスティヌス著『告白』山田晶訳、中央公論社刊、一九七八年、五九頁)。
 「あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから、私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」


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