2「私が苦しんでいるのは……いと高き方の右の手のわざが変わるから」
そのような中で、著者は突然、「私が苦しんでいるのはこれだ。いと高き方の右の手のわざが変わるからだ」(一〇節)と言います。これは神への不満の表現のようでありながら、同時に、自分が理解できない神のみこころの神秘への信頼でもあります。まさに信仰と不信仰が交差するこの詩篇の転換点です。「右の手」とは神の民に祝福と勝利をもたらす神の力の象徴的表現ですが、それは神の敵にとっては圧倒的な「さばき」の力ともなります。つまり、神が自分をどのように見るかによって、自分の将来はどちらにも変わりえるということを意味します。
たとえば、ヨブがあまりも不条理な苦しみにあったのは、神がサタンにそれを許された結果でした。まるでヨブが、「いと高き方の右の手」の中で、もてあそばれているかのようです。しかも、彼にはその理由を知ることは許されていません。それでも、彼は、神の語りかけを直接に聞くという体験を通して、自分の苦しみが、神のさばきではなく、あわれみに満ちた選びから始まっていることが分かりました。そして、「あなたには、すべてができること……どんな計画も成し遂げられることを……知りました」(ヨブ四二・二)という告白へと導かれます。
また哀歌の著者も、「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか」(三・三八)と告白しますが、それが神への信頼の表現であるのは、みことばをとおして神の救いのご計画が理解できた結果でした。
私たちは多くの場合、わざわいの原因も分かりませんし、わざわいを避けることもできません。しかし、それがすべて、神の御手の中で起こっていることだと受け止められるなら、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ八・二八)と告白して安心することができるのではないでしょうか。
しかも、それは最終的には、私たちの地上の生涯の枠を越えた時間の中で起こることでもあります。人生は、「露と落ち、露と消え行く」ほどに、はかないものですが、この地上のいのちを、神の救いのご計画の全体像から見直すときに、私たちは究極の慰めを受けることができます。
日本の歴史だって千五百年前ぐらいの記録しかないというのに、三千数百年前に記された聖書の中には、人間がどのように誕生し、どのように堕落し、今、どこに向かっているのかという全体像を見ることができるからです。しかも、その確かさは、星の数ほどの多くの人々の人生を導き、生かしてきたという実績で証明されています。