1「私のたましいは慰めを拒んだ……主の慈愛は……絶たれたのだろうか……」

最初の告白、「私は神に向かって声をあげ、そして、叫ぶ……すると、神は聴いてくださる」(一節)とは、聖書を貫く信仰の基本、公式のようなものです。信仰とは、神との対話であり、決して、お行儀よく黙っていることではありません。キリストですら、「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いとをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(ヘブル五・七)と記されているからです。しかし、私たちの叫び声がまったく神に届いていないように思え、「神は聴いてくださる」と自分で告白したことが、自分の心にうつろに響くようなときもあります。

そのような混乱した気持ちを作者は、「苦難の日に、主(アドナイ)を尋ね求め、夜には、疲れも知らず手を差し伸ばしながら、私のたましいは慰めを拒んだ」(二節)と告白しています。
 たとえば、ふたりのお子さんを抱えて末期がんに苦しんだある母親が、「私は神に委ねることなどできません!」と私に訴えて来られました。ところが、どんな慰めもうつろに響くように思える中で、「慰めを拒んだ」というこの祈りをともに祈らせていただいたところ、「こんな祈りがあるんですね……」とその方の表情が変わりました。彼女は、神に対して抱いている自分の怒りの気持ちを、神のみことばを用いて訴えることができたのです。その後、状況はかえって悪くなっているというのに、神との対話が豊かにされ、彼女の表情は不思議な平安に満たされてゆきました。そして、天に召された後の彼女の聖書は、この箇所だけしるしがついていました。
 これに関してあるドイツの宗教教育学者は、「このことばは、あまりにも素早く、あまりにも安易に与えられる慰めに、断固として抵抗する権利を容認してくれる」と興味深い表現で解説しています(「魂の配慮への歴史」1 C・メラー編、インゴ・バルダーマン著『詩篇』、加藤常昭訳、日本基督教団出版局刊、二〇〇〇年、六八頁)。
 たとえば、「主は、あわれみ深く、情け深い」(出エジプト三四・六)と言われるのを聞きながら、「それでは、なぜこんな不条理がまかり通るのですか……」と訴えたいと思うことがあります。しかも、落ち込んでいるとき、問題の解決以前に、ただ悲しみをそのまま受け止めてほしいと願うのは、人としての当然の感情ではないでしょうか。イエスですら、十字架にかけられる直前の日に、ナルドの香油をご自分の頭に注いでもらうことで、深い慰めを受けられたのですから。
 「優しさ」という字が、「人」が「憂い」の傍らに立つこととして描かれるように、愛は痛みに共感することから始まります。人は、落ち込むとき、「自分は何でこうも弱いのか……」とか「私の信仰は何と未熟なのか……」などと自分を責めて、悪循環に陥ってしまうことがあります。そのようなときに、その人の自己嫌悪に拍車をかけるような励ましのことばをかけてしまったことがないでしょうか。しかし、慰めを拒絶したい気持ちを受け入れることこそ、「愛」の始まりです。

この著者は、「神を思い起こす」ことが、賛美ではなく、「嘆き」を生み出し(三節)、また、静まって「思いを巡らす」ことが、かえって「私の霊は衰え果てる」原因になると訴えます。実際、私たちも、主の御前に静まることで、葛藤が増し加わるようなときもあることでしょう。
 しかし、そこに希望があります。それは、その人の「嘆き」が、出口のない空回りではなく、主に向かっているからです。多くの人は、この詩篇を読み、「私の気持ちがここに記されている!」と不思議な感動を覚えます。それは、不安と悲しみで「息が詰まっている」たましいが、主に向かって呼吸を始めるきっかけになります。祈りの基本は、主に向かっての「呼吸」なのですから……。
 このことを先に引用したバルダーマンは、次のように語っています。「不安は沈黙をもたらす。息を詰まらせる。そこでなお息をしながら助けを求める叫びを挙げる道を見出す者は、それだけで既に、すべてのものを手に捉え、もはや展望もないことを示そうとする不安の暗示を打ち破る。詩篇のことばは、それに抵抗して戦うように助けてくれる」(前掲書六〇頁)。

また、人は、悩みが深くなると、眠ることができなくなります。そんなときに、著者は、自分の弱さを責める代わりに、それが神のせいであるかのように、「あなたはこの目のまぶたを開いたままにさせる」(四節)と訴えています。何とも不思議な表現ではないでしょうか。
 しかも、「昔の日々」(五節)の恵みや、自分の心を震わせた「歌を思い起こす」(六節)ことで、感謝ではなく、かえって神への不満が引き出されるというのです。これは何とも皮肉です。それは、目の前の現実が、昔と比べてあまりにも悲惨だからです。
 ただ、この作者は、このように「自分の心のうちで思いを巡らし」たことを、飲み込む代わりに、その不敬虔とも言える気持ちを正直に表現します(七〜九節)。実際、「もう決して、目をかけてくださらないのだろうか」とは、神の選びを疑うかのような表現です。また、「主の慈愛は、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々よよに至るまで、すたれたのだろうか」とは、まるでことばの矛盾です。「慈愛」とは「ヘセッド」の訳で、主がご自身の「約束」を「永久に」守られ、それが「廃れる」ことなどあり得ないことを言い表すことばだからです。これは神の真実な約束への「疑い」を真っ向から表現したことばと言えましょう。
 そして、「神は、恵みを施すことを忘れたのだろうか。もしや、怒って、あわれみの心を閉じてしまわれたのだろうか」(九節)とは、自分には神の「怒り」を受ける十分な原因があると謙遜に認めながら、だからこそ、神の「恵み」と「あわれみ」だけを頼りにしていたのにという思いを訴え、その期待が裏切られ、絶望して行く自分の正直な気持ちを言い表したものです。
 しかし、このように神に対する疑いを、神に向かって正直にぶつけることこそ、信頼の証しとも言えるのではないでしょうか。疑いの表明の裏に、信仰が隠されているのかもしれません。


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