3「私は、主(ヤハ)のみわざを思い起こそう」

著者は、かつて、自分の記憶にある「遠い昔の年々」(五節)を「思い返す」ことが悲しみの原因となっていましたが、ここではそれよりもはるか昔の、イスラエルが奴隷の地エジプトから解放されたときにまでさかのぼって、「私は、主(ヤハ)のみわざを思い起こそう。昔からの、あなたの不思議なみわざを思い起こそう。私は、あなたのなさったすべてのことを思い浮かべ、あなたの恐ろしいさばきのみわざに、思いを巡らそう」(一一、一二節)と告白します。この詩の特徴は「思い起こす」ことに関する類語が繰り返されることですが、かつて悲しみをもたらした「思い起こし」はここでは希望と賛美を生み出しています。そこには、神がご自身の民の叫びに耳を傾けられ、何と、「天を曲げで、降りて来られ」(詩篇一八・九)て、エジプトの大軍と戦い、神の民を救ってくださったという、歴史に現された具体的な生きた救いのみわざが見られたからです。そして、「神よ。あなたの道は聖です……」(一三節)とのことばで、私たちの目は、自分ではなく、神に向けられ、神の視点から歴史を見るようにと導かれます。これこそ、「思いを巡らすこと」(meditation)の目標です。
 「どの神が、神のように偉大でしょう。あなたこそは、不思議なみわざを行われる神、国々の民にご自身の御力を知らされる方です。あなたは御腕をもって、ご自分の民を贖われました。ヤコブとヨセフの子らを」(一三〜一五節)とは、神のみわざが、私たちの正しい行いに対する報いである以前に、不思議な神の選びとあわれみから生まれているという告白です。私たちの救いは、自分の信仰以前に、神の愛の眼差しから始まっています。そこに究極の慰めがあります。

また、「水は見ました……」(一六節)とは、出エジプトの際、紅海の水が真っ二つに分けられたことを指します。しかも、「大いなる水」とは、創世記一章二節での全地を覆っていた水ですが、それさえも、神の御前で「震え上がる」というのです。
 そして、この著者は、かつて、「神に向かってを上げ……叫んで」いましたが、神は、はるかにまさる大きな「雷雲の」(一七節)と「かみなりの」(一八節)を出しながら、救いの御手を、ご自身の民のために差し伸べてくださったというのです。
 しかも、神にとって、その海にできた道は、「小道」(一九節)にしか過ぎないもの、神の小指のわざに過ぎません。そして、神の「足跡」(一九節)は、海の中に消えていますが、それは救われた民を通して確かに証しされています。
 多くの人に親しまれている「フットプリント」という詩の中で、著者は神に「私の人生でいちばんつらく、悲しいとき……、あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、私にはわかりません……」と訴えました。そのとき神は、「わたしの大切な子よ……足跡がひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた」と語られます(マーガレット・パワーズ著『あしあと』松代恵美訳、太平洋放送協会刊、一九九六年)。その神の足跡を霊の目で見るときに、私たちの人生は変わります。そして、この詩は、聖書の次の約束から生まれました。神は自業自得の苦しみの中で悩む神の民に向かって、今も、「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ……あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ばう。わたしは背負って、救い出そう」(イザヤ四六・三、四)と語り続けておられます。

最後に詩篇作者は、これらの神のみわざの目的は、神が「ご自身の民を贖い……ご自分の民を、羊の群れのように導く」(二〇節)ことにあったと述べます。そして、イエスも私たちに向かって、「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ一〇・二七、二八)と約束し。てくださいました。
 ご自分の民を導く神の御手は、同時に、イエスの御手であり、それらの御手の現れとして、「モーセとアロンの手」(二〇節)があり、また、私たちの回りの目に見える人々の手があるのです。神が数々の不思議なみわざを示してくださったのは、私たちを奇跡の奴隷にするためではなく、この世界の毎日のすべての現実が、神の御手の中にあることを教えるためなのです。

ドン・モーエンによる名曲「God will make a way」(主は道を造られる)が生まれた背景を、彼は次のように語っています。「私はあるとき、義理の妹夫婦が交通事故で九歳の息子を失い、三人の子供も重症を負ったという知らせを聞きました。私は無力感に圧倒され、心に浮かぶどんなみことばも慰めにならないと思えました。そして、祈っていると、神はひとつの歌をお与えくださり、それを私は書き留めました。

神は、道を造ってくださる。
道が何もないと思えるところにも。
神は、私たちが見えない方法で働かれ、
私のために 道を造ってくださる。
……
私たちの人生を襲う様々な困難は、神の臨在の現実を失わせるものではありません。人生には、死の影の谷を歩むとき、黒い雲に覆われていると思えるときが必ずやって来ます。しかし、厳しい現実は、私たちの神への信頼を揺るがすことはできません。なぜなら、苦しんでいるそのただ中に、神は私たちとともにおられ、道を造ってくださるからです……」(CD ライブ録音 Don Moen 「God With Us」 A Worship Experience for all seasons, 1993年 Integrity Music Inc.)
 この曲は不思議な力を持っています。ある人は重度のうつ状態に陥り、「私の人生はもう終わった……私の上を真っ黒な雲が覆い、どこにも逃げ場がありません……」と絶望を味わっている中でこの曲を聞き、「神は私を見捨てず、離れはしない」という真理が迫ってきたとのことです。

私たちの人生にも、ときに耐えられないほどの深い悲しみが襲ってくることがあるでしょう。残念ながら、この地には今も、昔も、不条理が満ちています。またそのような中で、自分の人生が管理不能に陥ったと感じてうつ状態になることがあるかもしれません。
 そのようなときこそ、この詩篇に心を潜め、昔からの神のみわざを思い起こすことが大切でしょう。それと同時に、神はこの歴史を支配しておられ、私たちを「新しい天と新しい地」に招き入れてくださるという約束のみことばに思いを巡らしたいものです。
 私たちには管理不能でも、神にとって管理不能なことは何もありません。神は、道なきところに道を開いてくださいます。砂漠をエデンの園に変えることがおできになります。「涙の谷」に、慰めの「泉」を湧き上がらせてくださいます(詩篇八四・六参照)。聖書全体の救いのストーリーに思いを潜めるとき、私たちはどんな暗闇の中でも、希望の光を見いだすことができるのです。


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