3 すべての人から見捨てられたと感じる孤独の中で、神に信頼する

ところで、「愛する者や友も私の災難から目を背け……遠く離れて立っています」(一一節)と、ダビデは苦しみの中で深い孤独を訴えています。しばしば、私たちも、わざわいに会う中で、人の非難や、冷たさになお深く傷つきます。イエスも、十字架への道を歩まれたとき、弟子たちが逃げ去るばかりか、一番弟子のペテロがご自身のことを否認することを知って、深い孤独を体験されました。
 ダビデの場合は、この機会に、彼を王座から追い落とす計略が進んでいました(一二節)。その首謀者は何と息子のアブシャロムでしたが、それが一時的にも成功するのは、ダビデに従っていた多くの人々が、彼のあまりの落ち込みを見て、裏切りを決意したからにほかなりません。人は、力を恐れ、力に屈服しますから、権力者が弱くなると権力を握りたいと思う者が出るのです。
 ダビデは、そのような中で、何も聞こえない、何も言えない者のように振る舞うことしかできませんでした(一三、一四節)。息子の反抗の原因が、自分のふがいなさにあると思うからこそ、また息子を失いたくないと思うからこそ、厳しく接することができなかったのではないでしょうか。それにしても、彼が父として沈黙を続けたことは、かえって問題を複雑にしてしまっているようにしか思えません。しかし、自分を裏切ろうと心を決めている敵に対しては沈黙しているのが最善ということもありますから、何が最善なのかは安易に言うことができないのかもしれません。

ただ、ここでダビデは自分の沈黙の理由を、「主(ヤハウェ)よ。あなたを私は待ち望んでいるからです」(一五節)と告白しています。人々の前での沈黙は、神への信頼の現れでもあったというのです。「攻撃は最大の防御……」とも言われるように、人は恐怖に圧倒されるからこそ沈黙していることができなくなります。ところが、彼はここで、それまでの絶望感とは打って変わって、「私の神、主(アドナイ、主人)よ。あなたは、答えてくださいます」と呼びかけつつ、私の神が、私の主として、この問題に解決をもたらしてくださるという不思議な信頼感を重ねて告白します。
 まったく出口が見えないという中で、このような信頼の告白が突然生まれるのは理解しがたいとも言えます。それで一五節bは、「あなたが答えてくださいますように」という嘆願として訳する場合もあります。しかし、多くの翻訳は、嘆願ではなく、神への信頼の告白と解釈しています。実際、多くの信仰者が体験していることは、絶望の淵で、突然、神の救いを期待できるようになるという不思議な心の変化ではないでしょうか。神は、無からすべての見えるものを、また、暗闇のただなかに光を創造される方ですが、私たちが自分の力や人の力に頼ることができると思っているうちは、その神のみわざに対して心を開くことができないとも言えましょう。

その上で、ダビデは、自分の敵が勝ち誇ることのないようにと生々しく、神に訴えます(一六節)。その際、神の助けがなければ、「この私」は、「崩れ」てしまうしかない者であり、「痛みが、いつも、ともにあるからです」と切々と訴えます(一七節)。
 しかも、そこで彼は「私は自分の答を言い表し、罪のゆえに不安になっています」(一八節)と言います。これは、「あなたは、答えてくださいます」(一五節b)と大胆に告白しながらも、自分の側には神の応答を期待できるような何の正義もないことをよく知っているからです。つまり、神の側には自分の嘆願に答える何の必然性もなく、ただ、あわれみにすがるしかないというのです。
 私たちは、「私は正しい!」と思うことで自分を主張する勇気を持ちますが、それがかえって、神のあわれみを見えなくさせる危険があります。パリサイ人たちは自分の義を立てようとして、神の御子を十字架にかけたことを忘れてはなりません(ローマ一〇・三)。私たちが頼るべきは、自分の正義ではなく、神の正義、神のあわれみなのですから。


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