4 イエスは、罪人の代表者となられ、「見捨てないでください」と祈られた

一方、今、「私の敵」の方は、良心の呵責も感じない結果として、はるかに活力に満ちているという皮肉な現実があります(一九節)。実際、神の前での良心が敏感にされた信仰者が心の痛みを感じながら暗くなっている一方、自分の罪と向き合うことのない悪人の方が元気にしているということが私たちのまわりにもないでしょうか。そして、そのような人たちは、図々しく、自分の罪に居直って、自分の都合だけを正当化し、善に代えて悪を報いてきます(二〇節)。
 ダビデはそのような中で、ただひたすら、「見捨てないでください。主(ヤハウェ)よ。私の神よ。遠く離れないでください」(二一節)と訴えています。それはイエスが十字架で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたことと同じ意味です。イエスのことばは、詩篇二二篇の冒頭のことばとまったく同じで、そこでは「どうして……」という疑問が前面に出ているかのようにも思われますが、文脈からは、この詩篇と同じ強い嘆願として理解されるべきです。つまり、イエスの十字架のことばは、この詩のことばでもあったのです。
 そしてイエスは、十字架でこの詩篇の続きのことば、「急いで、助けてください。主(アドナイ)よ。私の救いよ」(二二節)という気持ちを込めて父なる神に訴えられたのではないでしょうか。そして、それに父なる神は奇想天外な方法で答えられました。それは、人々の見ている前でイエスを十字架の苦しみから救い出す代わりに、誰も使ったことがない墓の中にまず葬らせた上で、三日目に彼を死人の中からよみがえらせるということでした。
 それこそ死の力に対する最終的な勝利宣言でした。アダムの子孫はすべて死の力に束縛されて生きていますが、私たちはキリストにつながることで、この勝利の交わりに加えていただくことができます。それは神の御子が、私たちとまったく同じ「血と肉」のからだを持ってくださったのは、「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル二・一四、一五)と記されているからです。

宗教改革者マルティン・ルターは、「この詩篇を、キリストは、ご自身の御苦しみと嘆きの中で祈られた。それは私たちの罪のためであった」と簡潔に表現しました(Martin Luther: aus der sieben Bußpsalmen 1517年)。それこそ福音の神秘です。まったく罪のない方が、私たちすべての罪をその身に担い、罪まみれの罪人の代表者となって、この詩篇を必死に祈ってくださったのです。
 そして私たちも、一見、暗いだけのこの詩篇に、自分の心の奥底に隠されている絶望感を照らし合わせて祈るときに、不思議な慰めを体験することができるのではないでしょうか。神の怒りを、イエス・キリストは私たちの身代わりに受けてくださいました。ですから、十字架を仰ぐ者は、神の「怒り」の背後に、神の燃えるような「愛」を見ることができるのです。
 それにしても、神がなお私たちに苦しみを与えられるのは、私たちの癒しのためです。残念ながら、私たちは痛い目に会わなければ自分の行動を改めようとしないからです。
 しかも、あなたが神の怒りを感じながら、なおも祈っているとき、イエスがあなたとともに祈っておられるというのです。それに関して聖書は、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ八・三四)と記しています。このことが分かるとき、私たちは、どんな自業自得の苦しみの中にも、神の救いの御手を見ることができます。

神の御前に祈るとは、自分で自分の心を慰め、励ますことではありません。答えが見えないと思えるような中で、ただ、自分の心の奥底にある絶望感を正直に受け止め、それを神の御前に注ぎだすことこそが祈りの始まりです。
 また、あなたが、人のためいきのようなうめきの声を聞いたときには、すぐにその原因を分析したり、解決の方法をアドバイスしようとしてはなりません。それ以前に、その人が神の御前で「息をつく」ことができるようになるという、その一点に心を集中すべきではないでしょうか。
 祈ることさえできなくなっている人に代わって、あなた自身が御霊の導きを求め、その人のことばにならないうめきに心を合わせ、ともにあなたの心を震わせ、そして、それを神への祈りと変えること、それこそがキリスト者の最大の使命だと思われます。伝道の基本とは、人のためいきを引き受けて、神の前でのためいき、うめきとすることではないでしょうか。


次へ目次前へ