2 神の怒りを受けて苦しんでいると訴える中から生まれる希望

ダビデは、神の「憤り」、「激怒」、「御怒り」という三つの類語を用いて、自分の苦しみが神の「怒り」によってもたらされたと嘆いています(一、三節)。彼は自分の子供たちが互いに傷つけ合い滅びてゆくことに深く心を痛めました。それがストレスになって身体全体が病み、自分の骨(身体を支える核心部分)から、神のシャローム(平安)が去ったと言います(三節)。
 たしかに、家の悲劇の直接の原因は、人間の罪ですが、「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ一〇・二九)という意味で、彼はすべての苦しみ中に、「神の怒り」を見ています。そして、そのような悲劇の引き金は、「私の罪」(三節)、また「私の愚かさ」(五節)にあると認めています。つまり、ダビデは、自分の苦しみが自業自得であること、また神のさばきの結果であることを認めながら、なお、必死に神にすがっているのです。それは、父親に激しく叱られながら、なお、すがりつこうとする子供の姿に似ています。

ダビデは「私の傷はうみただれ、悪臭を放ち」(五節)と言います。ほんの一瞬、ひとりの女性の美しさに心を奪われたことに身を任せた結果、家族全体のスキャンダルにまで広がりました。彼はそれを見て、ひどく打ちのめされ、一日中、嘆いて歩くことしかできません(六節)。
 なお、「腰は焼けるような痛みに満ち」(七節)には、感情の座が「腰」にあると理解されていたという背景があり、彼の良心が痛んで、自尊心を失っている様子を示していると思われます。
 そして「私の肉には健全なところがありません」(三、七節)という表現の繰り返しによって、自分の罪が、身体全体を重い病気に陥らせていると言っています。彼は今、生きる気力さえ失い、心は乱れ、判断力を失い、うめくことしかできません(八節)。
 詩篇五一篇でも、詩篇三二篇でも、ダビデは神の赦しを心から味わっているように見えました。それらとの調子の違いにとまどいを覚えますが、「私の罪は赦された!」という感動の後で、「やはり赦されていない……」という思いにとらわれることは、どの信仰者にもあることでしょう。
 人の心は、不可解なほどに大きく揺れることがあります。ダビデは、長男アムノンが娘タマルを騙して犯し、捨てたということの「一部始終を聞いて激しく怒った」(Ⅱサムエル一三・二一)のですが、その怒りの後、彼の心は激しく落ち込んだのでしょう。それで彼は適切なさばきを下すことができなくなります。その優柔不断を見たアブシャロムは、復讐心に燃えアムノンを殺します。そのときもダビデは、父親としての責任を果たすことができませんでした。そのような悪循環の連鎖の中で、ダビデの心はますます落ち込み、ついにはアブシャロムの反乱をも招いてしまいます。
 私たちの人生にも、これほどでないにしても、小さな誘惑に負けたところから、すべて狂いだし、「途方に暮れるばかり……」ということがあるかもしれません。

そんな中でダビデは、神を自分の「主人」(アドナイ)として呼びかけながら、「私の願いはすべて御前にあり、私のためいきはあなたに隠されていません」(九節)と告白します。これは、自分でどうしたらよいか、また、どのように祈ったらよいかも分からない心の状態を指します。彼は今、神の前でためいきをつくことしかできません。しかも、彼の心はさらに動転するばかりで(一〇節)、目の光も失われ、まさに生けるしかばねのようになっています。
 ただ、不思議なのは、彼はそのような自分の状況をこれほど多様なことばで言い表していることです。これは神の霊が、彼の心のうちに働き、ことばにならない絶望感を言い表すように助けてくださった結果ではないでしょうか。それこそ、神の御前での呼吸、つまり祈りの本質です。
 多くの人は、自分の苦しみが、自業自得のものと思ったとき、神にも人にも、何も言えなくなってしまいます。原因結果が明らかであるほど、そこに神のみわざを期待できなくなります。しかし、ダビデは、自分の上に起こった悲惨を、神の「怒り」の現れと見ることで、かえって、神がみこころを変えてくださるならすべてが変わるという希望を持つことができました。
 私たちの悲劇の直接の原因は、人間の罪であっても、神はその状況すべてを支配し、それを益に変えることがおできになります。それゆえ、私たちの救いは、この世に向かってためいきをつく代わりに、神の御前にためいきをつくことから始まると言えるのではないでしょうか。


次へ目次前へ