第三部 罪責感、悲惨さ、絶望感などを、ただ訴えたいときの祈り

人生の中で、何度か自分で自分を赦すことができないと思うほどの大きな罪を犯すことがあるかもしれません。その中で、神と教会に対して、「合わせる顔がない……」という思いになったり、激しい痛みを味わいながら「これは自業自得だから……」と、真正面から神に訴えられない気持ちになることもあるでしょう。そこに共通するのは、「息が詰まる思い」ではないでしょうか。そのようなとき、神の御前で呼吸することを助けてくれるのが以下の四つの詩篇です。
 宗教改革者マルティン・ルターは、生真面目人間のフィリップ・メランヒトンに向けて、次のよたうな逆説を語っています。「もし、君が恵みの説教者であるなら、こしらえ物の恵みではなく本当の恵みを説教し給え。もし恵みが本当なら、こしらえ物の罪ではなく、本当の罪を担っており給え。神は架空の罪を犯した者を赦し給うのではない。罪人であれ、、、、、そして大胆に罪を犯せ、、、、、、、、、、。しかし、罪と死と世界との勝利者であるキリストをさらに大胆に信じ、、、、、、、、、、、、、かつ喜び給え、、、、、、。われわれがわれわれであるかぎり、罪は犯されるに違いなかろう。この生は義の住家ではなく、ペテロと同様に、われわれは、義が住う新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。世の罪を除く小羊を神の栄光の富によって知ったことで、十分なのだ。たとい千回、一日に千回、姦淫と殺人の罪を犯そうとも、罪は彼からわれわれを引き離しはしない。考えてもみ給え、われわれの罪のためにこんなに大きな小羊によってなされた賠償額がそんなに小さいものであろうか。雄々しく祈り給え、、、、、、、、。君は最も断固たる罪人なのだから」(「ボンヘッファー選集」Ⅲ『キリストに従う』森平太訳、新教出版社刊、一九六六年、三五七、三五八頁の脚注に記されたルターのことば、この部分は福田正俊訳の引用)。
 このルターのことばに関しては様々な異論があっても当然でしょうが、彼が明らかな誤解を生む可能性があるほどの逆説で勧めたかったことの中心は、「大胆に祈る」ことにほかなりません。

詩篇五一篇は「悔い改めの詩篇」の代表作です。罪責感に圧倒される驚くほど多くの人の心に慰めと希望を与えてきました。そして、ここには「ダビデの子」と呼ばれたキリストの十字架と聖霊のみわざを預言的に見ることができます。旧約の中に記された新約の福音と言えましょう。

詩篇三八篇も「悔い改めの詩篇」のひとつに数えられますが、祈りの中心は、神の赦しというより、自分の病と敵の攻撃からの「救い」です。これはダビデの最も辛い人生の時期の気持ちを描いたもので、「うめき」ばかりが赤裸々に表現され、希望がほとんど見られません。しかし、そのためにかえって、絶望感に圧倒されている人にとっては大きな共感を生む祈りとなります。

詩篇七七篇は「私のたましいは慰めを拒んだ」という告白が多くの人の共感を得ています。私たちは、落ち込むとき、「言われることはごもっともです。でも……」という思いになることがあり、また神を思い起こそうとするとかえって心の混乱が激しくなることがあるからです。

詩篇四二、四三篇は「絶望感を祈る」ものです。これはひとつの詩で、イスラエルの最も暗い時代に記されたと思われます。しかし、絶望感の中に、不思議な慰めと希望が生まれます。


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