4「大きな会衆の中での私の賛美は、あなたから生まれました」
その上で、神への賛美が、「私」から民族や世代を超えて広がって行く様子が描かれています。二節での、「会衆の中で……賛美」は、二五節では、「大きな会衆の中……」へと成長しています。そして、それは神から「生まれたもの」だと告白されます。そして、その賛美の輪が、全世界に広がり、また世代を超えて広がる様子がこの詩篇の終わりに向かって描かれています。このように、神に見捨てられたと感じた者が、神のみわざを証しし、神への賛美を導く者へと変えられて行くプロセスは、今も、あなたのまわりでもあなた自身にも起きているのです。
私たちが母の胎から取り出され、様々な困難の中でも守られて来たのは、神が私たちを生かしたいと願っておられるからです。それゆえ、私たちひとりひとりには固有の使命が与えられています。私のメッセージをお聞きになった方が、よく「このままでいいんですね……」と改めて尋ねてくださることがあります。しかし、答えは、「はい」であり、また、「いいえ」です。聖書の教えは、「そのままの姿でイエスについて来なさい」ということだと思われるからです。それは、イエスに従ってゆくときに、あなたの過去のすべての苦しみや痛みが、異なった意味を持つようになり、すべてのことが益になっていることが分かるということだからです。
私は、幸い、牧会者としての歩みを始めたことを後悔したり、また、牧師を辞めたいと思ったことは一度もありません。しかし、神が私に与えてくださったユニークさが理解できず、自分らしくないやり方に固執して、数々の失敗をしてしまったことは反省しています。そして分かったことは、私は父からどうしようもない不器用さを受け継ぐと同時に、働きを途中で投げ出さないための忍耐力をも受け継がせていただいているということでした。父は、現在の水田の土を良くするために(客土といいますが……)、良い土を別のところから
あなたは親から受け継いだ様々な負の遺産を嘆くことがあるかもしれません。しかし、神は、それとセットで、それを補ってあまりある様々な能力を恵みとして与えておられるのです。それらが組み合わされて、あなた固有の人格を作り上げています。
そして、神は、あなたに様々な試練を与えながらも、それを通してご自身の救いを示して、「わたしはお前が生まれる前からお前の神だ。わたしこそがそのままのお前を生かすことができる」と語りかけておられます。
私たちは挫折を繰り返すたびに、神に創造されたままの自分らしい生き方に目覚めることができるのかもしれません。そして、自分にしかできない働きがあることが分かるとき、本当に、生かされてきたことの恵みを、神に感謝できるようになります。つまり、すべてが神から始まり、神への賛美と変えられるのです。
私は昔、自分の田舎は好きではありませんでした。世界にはばたきたいと思っていました。しかし、今、この大雪山を仰ぎ見る風景が好きでたまりません。私がキリストに従う決心をしたとき、宣教師の方から、このとき、天では天使があなたの回心を喜び歌っていると言われました。しかし、今、私が神を知るずっと前から、神は私を知っておられ、ご自身の栄光に用いるために、あえて、この両親のもとに誕生させてくださったと信じられるようになりました。
私は今、本当に、「母の胎内にいたときから、あなたは、私の神です」(一〇節)と告白できることが嬉しくてたまりません。神が与えてくださった親、兄弟、友人、風景、それらがすべて宝物に思えます。あなたはどうでしょうか?自分の生涯を、神の眼差しから見直すとき、すべてが変わります。「私の神」が、私の誕生を、またそれ以降の歩みを導いておられました。
私は自分のことをあまり好きではありませんでした。また、自分の傷つきやすさを、長い間、受け入れることができませんでした。しかし、私の救い主は、そのような痛みを担うために人となってくださったのでした。この「悩む者の悩み」(二四節)を、主は軽蔑されなかったばかりか、私が抱え込んでいる不安のゆえに起こしてしまう様々な過ちを、また罪を、その身に負ってくださいました。私の救い主は、それほどまでに、この私に寄り添ってくださったのです。
かつて「わが神、わが神……」という祈りを軽蔑したとき、私はイエスではなく、自分を軽蔑していたのです。そして、今、この祈りを聞くたびに、イエスが私の王として、私の身代わりとして、この祈りを叫んでくださったということが分かります。
私たちはこの世的な基準で自分の価値をはかります。そして、自分の期待をかなえてくれる神を求めます。しかし、人生には砂漠のような時期が必ずあるのではないでしょうか。そのとき、私たちは、神が遠く離れているように感じます。しかし、それを通して、私たちは神が与えてくださる富や名誉や力ではなく、神ご自身だけを求めることに目が向けられるのです。
イエスはすべてを失った中で、「私の神よ……」と、神ご自身との交わりだけを求めました。しかも、すべてを失ったと思えたときこそ、神がイエスを通して世界を救うという圧倒的な勝利の入り口でした。それを通して、世界のすべてのものがイエスに任されました。
私たちも神が遠く離れておられるように感じることがあったとしても、その貧しさを通して、神にある豊かさを体験することができるように変えられるのです。神以外の何ものも私に真の幸福を与えることはできません。
もちろん、私たちは、神のみこころでもない限り、自分で進んで苦しむ必要はありません。しかし、どの人生にも苦しみはあります。私たちに問われているのは、苦しんだことが無駄にならないこと、それが神との交わりを深めるために用いられることではないでしょうか。私たちも、いつでもどこでも、人生がどんなに辛く、悲しく思えるようなときにも、イエスの父なる神を「私の神」と告白して、その置かれた場で喜びを体験できるのです。