3「あなたは私に答えてくださいました」
私は年とともにようやく、イエスの十字架上の痛みの本質が分かるようになりました。牧師としての働きは、人間の複雑なたましいを相手にしますから、努力と結果は、なかなか結びつきはしません。それどころか、こちらが真剣になればなるほど、自分がコントロールされているように誤解し、息苦しさを感じて去ってゆくという人さえもいます。そんなとき、その人の痛みを思う以前に、自分自身が被害者意識や自己憐憫に陥りそうになることがあります。
しかし、イエスでさえ、一番弟子のペテロから三度、「知らない」と言われ、会計係を任せた弟子のユダから裏切られたのです……。それを思うとき、私の心の目は、自分自身からイエスに向けられます。イエスこそは、誰よりも深く孤独の痛みに苦しんでおられたからです。
その絶望的な状況が、一一〜一八節でも再び劇的にまた詩的に美しく表現されています。特に一八節「この衣のために、くじを引きます」と同じことが、イエスが十字架にかけられてすぐ起きました(マタイ二七・三五)。兵士たちは、目の前で苦しんでおられるイエスよりも、彼の着ていた衣のほうに心が動いたのです。あなたの人生が最も絶望的なときに、そこに当人がいないかのような会話が交わされ、その存在を無視されたらどれほど辛いことでしょう。
そして、一九〜二一節では、神に向かって必死に、「遠く離れないでください」「助けに急いでください」「救い出してください」「救ってください」と、立て続けに四回も訴えられます。
ところが、二節の終わりに、突然、「あなたは答えてくださいました」という宣言があります。実は、神のみわざは、しばしば「もうだめだ!」と思った瞬間、圧倒的に迫って来るものです。信仰は理屈を超えています。一、二、一九節で三回も繰り返された、神が「遠く離れておられる」と感じられる現実は、二四節にある告白、「まことに、主は、悩む者の悩みを、さげすむことなく、
私の母は、出産間もなく、嬰児の私を籠に入れて水田のあぜに置き、田植をしなければなりませんでした。そんな時、私は水田の中に落ち、鼻の頭だけを出し、叫ぶこともできずに死にそうになりました。ふと母は、心配になり、水田から上がって来ました。私を見つけるなり、叫びながら、呼吸がとまりかけ冷たくなった私を必死で抱き暖めました。私は息を吹き返しました。私が瀕死の時、母は「遠く離れて」いましたが、この出来事は、不思議に私の心の中では、母が、そして後には、神が、いつも「私とともにいる」という実感につながっています。
イエスの十字架と復活の関係も、そのように、父なる神と御子なるイエスとの永遠の愛の交わりの観点から見ることができます。イエスは、十字架で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ三日目に、死人の中からよみがえられました。そして、イエスの復活こそが、まさにこの叫びへの父なる神からの「答え」になっているのです。
そして、二二節で、「私は、御名を兄弟たちに語り、会衆の中で、あなたを賛美しましょう」と告白されます。新約聖書ヘブル人への手紙では、この同じみことばが引用されますが、その前に、「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます」(ヘブル二・一一、一二)と記されます。つまり復活の主は、私たちをご自分の弟、妹と呼ぶことを「恥としない」というのです。事実、復活したイエスは、マグダラのマリヤに現れ、ご自分を裏切った弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。そして、イエスは、彼らに対して「わたしの父」を「あなたがたの父」、また「わたしの神」を「あなたがたの神」と呼びかえて、彼らをご自身の弟として位置づけてくださいました(ヨハネ二〇・一七)。ですから、この二二節のみことばは、復活のイエスが弟子たちをご自分の弟、
妹として集めて教会を作り、その礼拝を導いてくださることを預言したものと言えましょう。それで私たちも、イエスの兄弟として、日曜日ごとにイエスに導かれて、イエスの父なる神に感謝の祈りをささげるのです。
イエスは、今、いつくしみ深い兄として私たちの前を歩き、どのような暗闇の中にも希望を与えてくださいます。ですから私たちは、どんなときにも、イエスに倣って、「あなたは答えてくださいます」と告白することができます。私たちが「もうだめだ!」とピンチに陥ることは、神の圧倒的なみわざを体験するチャンスなのです。
つまり、イエスが、全世界の罪を負い、神からのろわれた者となりながら、なおも、「私の神」と叫び続けた、その「祈りが答えられた」結果として、今、あなたもイエスの父なる神を、「私の神」と告白できるようになったというのです。これこそ福音の核心です。