2「あなたは、私を母の胎から取り出され……胎に宿ったときから……私の神です」
その上で作者は、沈黙の後、九、一〇節で、再び、神を「あなた」と呼びかけ、「私」の誕生の場に神がおられたことを覚えます。そして、神様がなんと、有能な助産師さんにたとえられます。
私はよく母から、「お前は頭が大きかったから、出産が大変だった」と言われました。当時は、病院ではなく、助産師さんに助けてもらうのが普通でしたが、その助産師さんを使って私の頭を狭苦しい産道から引き出し、母の乳房を吸わせたのは神ご自身だったというのです。難産だったのは、私が安全な母の胎から出されることを本能的に恐れ、抵抗していたからかもしれません。そして、実際、この世界は決して住みやすいところではなく、争いと不安に満ちています。それで、多くの生き難さを抱えた人の中に、この母胎に戻ることへの憧れがあるとさえ言われます。
しかし、この苦しみの始まりを導いたのは神ご自身でした。神こそが「私を……母の乳房に、拠り頼ませた方」であり、私は、母のふところに憩う前から、神の「ふところにゆだねられていた」というのです。人によっては、「私は母に傷つけられたけれど、神を信じて救われた」と考えますが、ここでは、「母の胎内にいたときから、あなたは、私の神です」と告白されます。私のいろいろな意味での生き難さは、基本的に出生に由来します。しかし、「母」以前に「私の神」が、あの大雪山の
ところで私はドイツ駐在中の家庭集会で、物理学の最先端の科学者と出会い、自分は科学の限界を知らないからこそ、聖書をそのまま神のことばと信じることを躊躇していたということが分かりました。私たちはいのちの誕生の神秘をあまりにも軽く見すぎてはいないでしょうか?あの精子と卵子の結びつきから、どうしてこのように驚くほど精密で複雑な生命体ができるのでしょう?あの不思議な遺伝子の組み合わせは、自然にできるものなのでしょうか?学校では進化論が科学であるかのように教えられますが、どの科学者が、アメーバから人間に至る遺伝子の進化のプロセスを解明できたというのでしょう?あなたのいのちは、神の最高傑作です。あなたの創造主は、父でも母でもなく、神ご自身なのです。ただ、神はそのために父と母を用いられたに過ぎません。
信仰とは、目に見える現実を超えた神の救いのみわざ、また神の私に対する期待を知ることです。私たちの誕生は決して、偶然でも、間違いでもありませんでした。苦しみは、誕生の瞬間から私たちの人生の一部なのですから、それを避けようとするのではなく、かえって、それを正面から引き受け、「苦しみ甲斐のある人生」を歩むべきではないでしょうか。神は、目的を持って、ひとりひとりを特別にユニークに創造してくださったのですから。