1「私の神、私の神よ。なぜ、私をお見捨てになったのでしょう」
私は、今から五十年余り前の年度末最後の日に、開拓農民の家の長男として生まれました。この誕生のときに始まり、私は何においてもすべてが遅れがちで、小学校三年生の担任などからは「とろい、とろい」と繰り返されるほどで、ソフトボールの仲間にも入れてもらえませんでした。ところが小学校の高学年から、勉強するたびに成績が上がるようになり、いろいろありましたが、この世的には、右肩上がりの歩みになりました。
しかし、心の中は、いつも何とも言えない「恐れ」にとらわれていました。それは何かを失うことの恐れであり、また、バカにされ、仲間外れにされ、拒絶されることへの恐れかもしれません。最近は、それが「見捨てられ不安」と呼ばれ、多くの日本人が抱える根本的な病理であるとも言われます。そして、それは私ばかりか、今から三千年前のイスラエルの王、ダビデ自身が味わった気持ちでもあるかのように思われます。
ところで、イエスの名は、聖書で「インマヌエル」(神は私たちとともにおられる)とも呼ばれますが(マタイ一・二三)、なんとその方が、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたというのです(マタイ二七・四六)。つまり、「神はともにおられる」という名の方が、「神はともにおられない」と叫んだということになります。何という矛盾でしょう?
しかし、イエスは十字架で、全世界の罪を負い、誰よりも醜い罪人となって、父なる神から見捨てられていることを味わっておられたのです。イエスにとって何よりも辛かったのは、十字架の釘の痛み以上に、最愛の父なる神から見捨てられていると感じざるを得ない点にありました。
ですから、イエスの叫びは、「往生際が悪い」者の叫びとはまったく次元が異なります。しかも、これが詩篇二二篇のことばそのものであることが分かるとき、「神に見捨てられた」と一時的に感じることと、それにもかかわらず「神は私とともにおられる」と告白することには矛盾がないという信仰の真理を理解する鍵となります。
それにしても、この叫びが心をとらえて離さなかったのは、私の中にある「見捨てられ不安」が共鳴を起こしたためだったように思えます。今、この詩篇の文脈全体からこれを見ることを学んだとき、私は感動とともに分かったことがあります。それは、「イエスは、神に見捨てられていると失望する者たちの代表者となるために十字架にかかってくださった」ということです。
しかも、イエスは、「どうして私を見捨てたのですか!」と恨みがましく叫んだわけではありません。この中心的な意味は、神から見捨てられたと感じざるを得ない状況の中で、なお、「私の神、私の神よ」と、その神を私自身の神であると告白し、「どうか見捨てないでください!」とあきらめずに祈り続けたことにあるからです。
一、二節にあるように、この詩篇の作者は、神が沈黙しておられる中でも、なお繰り返し叫び続けています。心は乱れて夜も眠ることができないほどなのですが、なおも神を呼び求めています。
その上で、三節から、神に向かって「あなた」と呼びかけつつ、イスラエルの歴史に現された神のみわざを思い起こします。ここには、自分の状況をそのまま訴える「私」の視点と、沈黙を経て、神のみわざを思い起こす「あなた」の視点が交互に描かれているのです。
しかも、四、五節には、「信頼」ということばが三度も繰り返され、神への信頼が究極的には必ず報われることを告白します。これは私たちが聖書から学ぶことの核心です。
しかし現実は、それとはかけ離れているように見えます。六節にあるように、「この私」は、人間の尊厳を奪われ「虫けら」のように扱われています。神を呼び求める姿が、物笑いの種とされ、八節にあるように、「主(ヤハウェ)にまかせ、助けてもらえ。救ってもらえ。お気に入りなのだから」とあざけられます。
そして、それこそイエスの十字架上の痛みでした。それを描いたマタイの福音書二七章三三〜四四節はこの箇所の表現と驚くほど似ています。その中心は、イエスの肉体的な痛みよりも、「虫けら」のように扱われ、軽蔑の的となり、自分が身代わりになった罪人たちからとんでもない皮肉と罵声を浴びせられたという心の痛みです。イエスは、目の前の人々の罪を負って、その身代わりに苦しんでおられるというのに……。私たちは、何よりも、人の誤解や中傷に傷つきますが、その苦しみを、イエスは誰よりも深く味わってくださったのです。