「母の胎内にいたときから、あなたは、私の神です」

初めて聖書を読んだとき、イエスによる様々な癒しの奇跡の記事を読みながら、「よくこんなこと信じられるな…… 」と不思議に思ったものです。そしてなおも読み進むと、イエスが十字架上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだという記事に出会い、「何と往生際の悪いことか。やはりこれは信じるに値しない!」と思ったものでした。私は、宗教とは、自分の心を自分で制御できるようになるための道、どんなときにも平安でいられる道だと思っていましたから、この嘆きは受け入れがたく思えたのです。
 ところが、今は、イエスの十字架上でのその叫びが、私の心に何よりの平安をもたらすようになりました。それは、そのことばが詩篇二二篇の初めのことばそのものだということが分かり、そこに記されている心の微妙な揺れが何とも身近に感じられるようになってきたからです。
 なお、この詩篇はイエスの一千年前の王ダビデによって記されたものです。そして、イエスは、ダビデの子として、ダビデの痛みをご自身の痛みとして味わわれました。それは、イスラエルばかりか全人類の王、私たちの代表者として味わってくださった苦しみでした。

私は小さい頃から、人の目がいつも気になり、自分が寂しがりやで臆病であることを恥じていました。もっと人の反応やまわりのできごとに左右されない不動の心を持ちたいと願っていました。その渇きがあったので大学生の頃、聖書を読みたいという気になったのかと思います。しかし、今も、いわゆる悟りの境地からは程遠い状況です。
 ただし、今、私が目指し続けている「信仰の成長」とは、不動の心を持つようになることではなく、神との「祈りの交わり」において成長することです。事実、私の心は信仰の歩みとともに、いろいろな出来事にかえって敏感に反応するようになり、傷つきやすくなっている面さえあるように思えます。それはこのままの自分が神の愛に包まれているということが分かるにつれ、自分で自分を守ろうとする構えから自由になって、心が動きやすくなったからかもしれません。そればかりか、今、私の抱える様々な不安や葛藤や孤独感は、世の多くの人々が抱える心の痛みを理解する窓とされているように思えます。
 星野富弘さんが、手足の自由を失い、入院して六年ぐらいたった頃のことですが、口で筆を加えつつ、「れんぎょう」の花の絵とともに次のような詩を書いておられます(星野富弘著『四季抄-風の旅』立風書房刊、一九八二年、五二頁)。

「わたしは傷を持っている
でも その傷のところから
あなたのやさしさがしみてくる」

あなたも様々な心の傷を抱えながら生きて来られたことでしょう。ある人は、そのため親を恨むことさえあるかもしれません。しかし、その傷は、創造主であられる神様の優しさがしみてくる泉となるのです。そして、それは同時に、人の心の傷にやさしく寄り添う愛の泉とさえ変えられます。私は、この年になってようやく、生まれる前から神に愛され、神のご計画の中で、北海道の大雪山のふもとの村に誕生させられたということが分かりました。そこに生まれる告白こそ、「母の胎内にいたときから、あなたは、私の神です」というものです。


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