3「あなたは、私を大きくするために低くなってくださいました」

神の救いは、私を造り変えることとしても表現されます。それが、「あなたは私の灯火を灯され、主(ヤハウェ)、私の神は、私のやみを光とされる」(二八節)です。それは圧倒的な敵の勢力の前で、神だけが「私の救い」であることを認めるようになった結果です。先に、神が近づいて来られることは「暗やみ」が迫ることとして描かれましたが、神ご自身が私たちの暗い殻を打ち破って、うちに住んでくださるとき、たましいの奥底の「霊」の部分に神の「光」が宿ります。
 使徒パウロは「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」(Ⅰテサロニケ五・二三)と祈り、人の存在を三つの部分に分けました。そしてルターも、私たちの存在を神の幕屋にたとえ、「霊」、「たましい」、「からだ」をそれぞれ「至聖所」「聖所」「庭」に当てはめて説明しました(ルター著『マグニフィカート』内海季秋訳、聖文舎刊、一九七三年、二〇頁)。庭は太陽の下にあり、聖所は祭司が灯明をつけて明るくすることができますが、至聖所はやみに包まれています。そこは神ご自身が住まう場だからです。私たちは様々な知恵を用いて、たましいを明るくすることができたとしても、霊の部分に光を灯すことができるのは神ご自身だけです。そして、神の光が宿ってくださる神秘は、理性には説明し難いことですが、その人の生き方に結果的に見えるように現れることでもあります。事実、イエスはご自分に従う者を、「あなたがたは、世界の光です」(マタイ五・一四)と呼んでくださいました。これは、「光になりなさい」という命令ではなく、イエスに従うことによって「光となっている」という約束であることを心に留めたいと思います。

そして、ダビデは神が私たちのうちにもたらしてくださる変化を、「私の足を雌鹿のようにして高い所に立たせ」、「戦いのために私の手を鍛えてくださる」(三三、三四節)と歌います。それによって、敵の前から軽やかに逃げることも、反対に、愛する人を守るために命を賭けて戦うことも、必要に応じて自由に選ぶことができるというのです。使徒パウロも、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ四・一三)と告白しました。
 そして、「あなた……は私を大きくするために低くなってくださいました」(三五節)とは、「主は、天を曲げ、降りて来られた」(九節)ことを指すと思われます。それは神の謙遜を示すものですが、その目的は、主が、あなたを「大きく」して、ご自身の働きに用いてくださるためです。誤った謙避によって、神が行おうとしてくださることに対して自分の心を閉ざしてはなりません。神の御子が、ご自身を貧しくしてこの地に降りて来られたことの目的は、あなたをご自身の代理大使として整えて世に遣わし、神の平和をこの地に実現するためなのですから。
 そして、「あなたは私の歩幅を広くしてくださいました」(三六節)での「広く」とは、一九節の「広い所」と同じ語源のことばです。神があなたを「広い所」に連れ出されるのは、「広い歩幅」で歩かせ、働きを全うさせるためです。
 三七〜四〇節の残酷な表現は、キリストが罪人のためいのちを捨てられた現在には適用できませんが、中心的な意味は、神から与えられた使命を中途半端に終わらせないということです。また、サタンとの戦いにおける妥協を戒めたものとも理解できます。神はあなたの「歩幅を広くして」くださったのですから、「私なんかどうせ……」という発想から自由になりたいものです。

「彼らが叫んでも救う者はなく、主(ヤハウェ)に叫んでも、答えはなかった」(四一節)とは、サウルの悲劇を表しています。彼は主の沈黙に耐えられなくなって霊媒師の助けまで求めて、自滅して行きました。一方、神に助けを求め続けたダビデは「国々のかしらに任ぜられ」(四三節)、異教徒をもひざまずかせる権威を授けられました。そして主は私たちそれぞれをダビデの子孫とし、キリストとともにこの地を支配する王と定め、「御使いをもさばくべき者」(Ⅰコリント六・三)としての権威を約束してくださいました。私たちはそれを理解しているでしょうか。自分を小さく見すぎることは、あなたを選び、あなたをこの世に派遣しておられるイエス・キリストに失礼な態度でもあるのです。
 最後に、「主(ヤハウェ)は、生きておられる」(四六節)という告白を、ダビデがもっとも印象的に語っているのは、サウルを槍でひとさしにしようとしたアビシャイをとどめたときです(Ⅰサムエル二六・一〇)。このときダビデはこのことばに続いて、「主(ヤハウェ)は、必ず彼を打たれる」と、自分が手を下さなくても、主が彼をさばいてくださると言いました。
 そして、これはあなたがこの世界で様々な矛盾の中に生かされ、神のご支配を疑わざるをえないようなときに、必死に神に向かって祈るなら、あなたが生かされている場で、生きて働いておられる神を体験することができるという約束でもあります。

この詩篇一八篇は、出エジプト記からサムエル記に至る神の救いのストーリーを劇的に要約したものと言えましょう。神の救いは、あなたの日常生活のただ中で体験できるものです。
 あなたの目の前には、様々な不条理が横たわっているかもしれません。そのとき、「神がおられるなら、どうして……」と問うのではなく、「全能の神に呼び求めることを知らないで、どうして私はこの世の悪に染まらずに生きることができようか?」と問い直してみてはいかがでしょう。


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