2「主は私を広い所に連れ出し……」

主の救いは、「はるかに高い所から御手を伸べて私をつかみ、深い大水の中から引き上げる」(一六節)と描かれます。その際、「大水」とは、敵対するこの世の力の比喩ですが、「彼らは、私には強すぎ」るからこそ(一七節)、主は無力な私たちを引き上げ、激しい迫害の中でも支えてくださいます。そのことが「しかし、主(ヤハウェ)は、私の支えであった」と告白されます(一八節b)。
 そして、「主は私を広い所に連れ出し、助けてくださった」(一九節)とありますが、それはダビデにとって、洞窟に隠れる生活から、広い緑の野を自由に歩き回ることができるようになることでした。同じように私たちも、敵の攻撃から身を隠す必要のない自由の中に置いていただけます。
 そして、そのように主が私を特別に扱ってくださる理由が、「それは、主が私を喜びとされたから」(一九節)と表現されます。これは「気に入る」とも訳されることばです。確かにダビデは驚くほどに心が素直でしたから、気に入られて当然かもしれません。しかし、キリストにつながる私たちに対しても、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」(ヤコプ四・五)と言われます。神の御霊によってイエスを主と告白している人はすべて、「神のお気に入り」なのです。それを前提にパウロはローマ人への手紙で、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ八・三一)と大胆に語っています。
 私は非常に悲しく辛いところを通らされた後で、「主が私を喜びとされた」というみことばを友人から示され、何とも深い慰めを受けることができました。私たちは苦しみの中で、そこに自業自得的な面を発見すると、ただでさえ大変な中で自己嫌悪に陥り、ますます泥沼にはまってゆきます。そんなときこのままの私が神の目に留められ、期待されているということ、様々な過ちにも関わらず、なおこの私を神が喜んでくださるということを覚えられたことは何とも大きな慰めでした。

それにしても「主は、私の義に応じて報い、手のきよさに応じて返してくださった……私は主の前に完全であり、罪から身を守った」(二〇〜二三節)という告白は大胆です。これは特に、ダビデが二回もサウルの命を奪うことができる好機をつかみながら、彼を「主に油そそがれた方」と呼んで、手を下さなかったことを指すと思われます(Ⅰサムエル二四、二六章)。
 そのときダビデは、「主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます」(同二六・二三)と言って、主のさばきにゆだねました。ただ、この後、彼がペリシテにまで逃亡せざるを得なかったことを考えると、これは一時的には、損な選択としか思えなかったことでしょうが、後に、神はそれをあり余る形で「返してくださった」(二四節)と心から告白できるようになりました。
 それを前提に彼は、「あなたは、真実な者には真実であられ、完全な者には完全であられ」(二五節)と告白します。とにかく彼は、神の前に何よりも真実であろうとしました。しかも主は、「ひねた者にはご自身を隠される」(二六節)のですから、正直さこそ祝福の鍵でした。
 ところで、ここでの「完全」の意味は、いけにえとして神に受け入れられるような状態を指し、この世が期待する完全とは異なります。「神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれ、打ちひしがれた心」(詩篇五一・一七)とあるように、自分は神の助けなしには生きてゆけないという「弱さ」を自覚する心こそが、神の前での「完全」です。ダビデは数々の過ちを犯しましたが、神に対してまっすぐに生きようとしていました。その心を、神は喜んでくださったのです。そして、今、あなたも、自分はイエスの十字架の赦しなしには受け入れられない罪人であるということを意識しているという意味で、「神のお気に入り」つまり、完全な者になっていると言えるのです。
 今、私たちに問われていることは、「主が私を喜びとされた」という「愛」に応答して生きることです。あなたは、愛する人のために贈り物を選ぼうとするとき、愛する人の笑顔を思い浮かべながら、いろいろと迷いつつ思いを巡らすことでしょうが、パウロは、「私たちの念願とするところは、主に喜ばれること」(Ⅱコリント五・九)と言いました。私たちも、「神のお気に入り」とされているという誇りを持ちながら、何が主に喜ばれることかを思い巡らすべきでしょう。


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