1「主は、天を曲げ、降りて来られた」
この詩篇の標題は異例に長いもので、同じ歌はⅡサムエル二二章にもあり、ダビデの生涯の総まとめ的な意味があることが分かります。彼はサウル王に命を狙われ、同胞のユダ族からも裏切られ、明日の命が分からない緊張の中に長い間、放置されました。
そのような中で彼は最初に、「あなたを慕います」と告白しつつ、「主(ヤハウェ)、私の力よ」と呼びかけます。これは英語ではしばしば、I love You, O Lord, my strengthと訳されますが、この方が、実感が伝わるかもしれません。その上で、主(ヤハウェ)こそが、自分を強力な敵の攻撃から守ってくださることを、様々なことばで表現します(二、三節)。そこには、彼が、岩山や洞窟などに身を隠し続けてきた体験を垣間見ることができます。私たちの生活の中では、主の守りは、どのようなことばで表現できるでしょうか。身近な表現を思い浮かべてみましょう。
ダビデは死と隣り合わせに生きる恐怖の中で、主(ヤハウェ)の救いを必死に求めます(六節)。そして、その叫びが天の主の宮に届いたとき、主は、ダビデの敵に対して、地と山々を震わせるほどの「怒り」を発せられます(七節)。主の「怒り」は、ダビデにとっての「救い」でした。
主の怒りの激しさが擬人的に、鼻からの煙、口からの火と表現されます(八節)。このとき主は、「わたしの愛するダビデに向かって、何ということをするのか!」と怒っておられるかのようです。それは、主がダビデの味方となっておられるからです。
そればかりか、天の上に座しておられる主が、この世界のただ中に、「天を曲げ、降りて来られた」(九節)というのです。その際、「暗やみを足台として」と、不思議な表現がありますが、それは、主の栄光は「真っ暗な雲」(出エジプト一四・二〇)で現され、主がシナイ山に降りて来られたときには全山が火山になったように激しく震えたからです。それと同じように、ここでも、主が近づいて来られるときの不思議と恐怖が、人間の理解を超えた暗黒と輝き、雹と火の炭という相反する現象が同時に迫ってくることとして描かれます(一一、一二節)。
そして、「矢」と「稲妻」による攻撃は、ダビデの敵の側に向けられます(一四節)。そこには、「主の叱責、鼻の激しい息吹で、水の底が現れ、地の基があらわにされた」(一五節)と、主がイスラエルのためにエジプト軍を海の底に沈めたことを思い起こさせる表現が用いられます。
それにしても、主が「天を曲げ、降りて来られた」ときの様子が、「暗やみを足台として」(九節)と描かれているのは興味深いことです。宗教改革者マルティン・ルターは一五三〇年のこの箇所の解説で、「空が明るいとき、雲は高いところにある。しかし、地が暗く、暗い雲が低く空を覆っているとき、私たちの神は近くにおられる。主は暗やみを足台としておられるのだから……。もちろん私たちは雲の中に神を見いだすことができない。かえって、雷鳴を聞きながら、神が私たちに怒っているようにしか感じられないが……」と分かりやすく解説しています(Luthers Psalmen Auslegung 1959 Hubert&co Goetingen pp.238,239)。
つまり、神が私たちの叫びを聞き、私たちを助けてくださるとき、かえって目の前の状況はさらに暗く、悪くなり、神が怒っておられるようにしか感じられないことがあるかもしれませんが、そのときこそ神が近くにおられるというのです。
なお、神が私たちに近づいてくださるときに起きがちな神秘を、十字架のヨハネは、「霊の暗夜」と呼び、神とともに訪れる「暗やみ」を積極的に描きます。彼は十六世紀後半に活躍したスペインの修道士で、ルターの改革に真っ向から反対した人のはずですが、この詩篇を読みながら体験したことは極めて似ているように思われます。詩篇は信仰者を一致に導くのでしょうか。
十字架のヨハネは「光」と「暗やみ」が相反するものではないことを、「窓を通して入ってくる太陽の光線は……空中にほこりやゴミがあればあるほど、その光は、より輝かしく目に映る。そのわけは、見られるものは光そのものではなく、光は、光が襲う他のものが見られるための媒介に過ぎないからである」と説明しています(『暗夜』山口女子カルメル会改訳、ドン・ボスコ社刊、一七一頁)。これは、宇宙飛行士が、宇宙に出て体験する暗やみと同じでしょう。太陽により近づいているはずなのに、光を反射する地球から遠ざかるほど暗やみが自分を包んでいるとしか感じられません。
同じように神との距離が近くなればなるほど、神の光を照らし出すのは、この世のものではなく、自分の心の闇や惨めさとなります。彼は、「神の霊的な光は、非常に壮大であり、人間の自然的理性をはるかに超えるものであるため、それに近づけば近づくほど、その人を盲目にし、暗くする。ダビデが詩篇一八篇で『主は、やみを隠れ家としてめぐらし、暗い雨雲、濃い雲を仮住まいとされる』(一一節)と言っているのはそのためである」(同書二三八頁、詩篇引用は私訳)と記しています。
信仰者に襲う人生の暗やみを恐れる必要はありません。そこから逃げ出そうとあせったり、人間的な解決を急ぐことは、状況をかえって悪くしてしまいがちです。神にとって不可能はありません。神は聞いていないようで、私たちの叫びを聞いておられます。それどころか、私たちを襲っている「暗やみ」は、「神の救いが近いしるし」かもしれないのです。そのようなときこそ、神の御前に静まり、神が、愛を持って私を取り扱っておられることに思いを向けるべきです。
多くの人々は、「神のさばき」を自分に向けられるものと考えがちです。しかし、イエスが不正な裁判官のたとえで教えておられることは(ルカ一八・一〜七)、社会的弱者であるひとりのやもめが、「私の相手をさばいて、私を守ってください」とひっきりなしに訴えるなら、「人を人とも思わない裁判官」であっても彼女を守るためにさばきを下すということでした。そして、それをもとにイエスは、「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」と、祈る者への神の救いを保証されたのです。
私たちの住む世界には、今も昔も、権力者の横暴があり、様々な理不尽が蔓延してはいないでしょうか。そして、あなたが切羽詰ったとき、初めに誰に助けを求めるのでしょう?
昔、私が会社を辞めようとしたときのことですが、同じ大学の出世頭の先輩が私を心配して訪ね、「誰か君に理不尽なことをする上司がいるのか?」と私から聞きだそうとしてくれました。伝道者になりたいなどということが理解できなかったからです。それにしても、私はそのとき、嬉しさと同時に恐ろしさを感じました。私の先輩はさばきをつける力を持っていましたが、それを通して親分子分の関係が強められることが分かっていたからです。私の先輩は公正な人でしたが、とんでもない親分に従って不正の片棒を担がされてしまう人がいるかもしれません。全能の神にまず訴え、神が遣わしてくださる人を見定めるべきでしょう。
私たちも、「苦しみの中で、主(ヤハウェ)を、私の神を呼び、助けを求め」(六節)ます。すると、「主は、天を曲げ、降りて来られる」のです(九節)。そして、私たちの救い主イエスこそは、この世界の人々の叫びに答えて、天を曲げて降りて来られた方でした。
しかし、そのとき救い主は、栄光の雲に包まれて降りて来られたのではなく、ひ弱な赤ちゃんとして処女マリヤから生まれてくださいました。それは罪人たちに神の愛のご支配を証しし、彼らを神のもとに立ち返らせるためでした。当時の人々は、「預言された方は、この世の不条理をたちどころにさばいてくださる」と期待していましたが、そこに何とも不思議なことが起こりました。
救い主(キリスト)ご自身が、この世の権力者による不当なさばきを受け、父なる神に助けを求める立場になってくださったのです。それは、キリストご自身が、この世の不条理に苦しむ者の仲間となってくださるためでした。そして、イエス・キリストの十字架の死の苦しみからの叫びは、父なる神に届き、彼は死の中から三日目によみがえったのです。イエスの復活こそは、この世のすべての理不尽な苦しみのなかに神が出口を用意しておられることを指し示すものです。