3「主(ヤハウェ)は、私を救ってくださる」

「私が、神に呼ばわると、主(ヤハウェ)は、私を救ってくださる」(一六節)という告白では、不思議に「神」と「主(ヤハウェ」ということばの使い分けがなされています。これは、「私」が、神のご性質を漠然としか知らないまま、ただ切羽詰って、「神様!」と呼ばれるようなときにも、主(ヤハウェ)は、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト三・一四)というご自身の名を示しながら、親しく私に答えてくださるという意味ではないでしょうか。
 そして、「夕、朝、真昼、私はうめき、嘆く。すると……」(一七節)とは、私たちが一晩中ばかりか翌日の昼まで「うめき、嘆き続ける」様子を、神はじっと聴き続けられ、その上で、初めて答えてくださるというリズムが表されているようです。私たちは、「主は私の声を聞いてくださる」という実感を味わう前に、余りにも早く訴えるのを諦めてしまってはいないでしょうか。
 私たちの目の前には、神が「私の訴えから、身を隠しておられる」(一節)と思える現実が繰り返し起こるかもしれません。しかし、ダビデは、苦しみのただ中で、諦めることなくじっと祈り続けることを通して初めて、自分の訴えの声が確かに神に届いていたことを、繰り返し体験することができました。それは頭での理解ではなく、腹の底からの確信となりました。

なお、「絶やしてください!主よ、彼らを……死が襲いかかればよい……」(九、一五節)という表現は、「のろい」を祈っているように感じられます。しかし、それは、自分の気持ちを正直に神に述べ、公正な裁きを訴えたものであり、復讐ではありません。
 それは、ダビデが自分で戦おうとしなくても、神が「迫り来る戦いから、このたましいを平和のうちに贖い出してくださる」(一八節)と告白できているからです。私たちは、しばしば、神のさばきを信じることができないからこそ、敵を赦すことができないのではないでしょうか。

そして、このような「私」を中心とした祈りの後に、突然、「ゆだねよ!主(ヤハウェ)に、あなたの重荷を」(二二節)と、他の人への勧めが記されます。これは、神の沈黙に悩んでいたダビデが、「私の祈りは答えられた!」という実体験を経た上で、神への信頼を訴えるものです。
 しばしば、これに至るプロセスを飛び越えて、この「勧め」ばかりが強調される場合がありますが、それは人の心の繊細さや揺れを軽蔑した心の暴力になりかねません。そう簡単に目に見えない神にすべてを任せきることができるぐらいなら、神の御子が人となって十字架にかかる必要などなかったことを覚える必要があります。イスラエルの民は、それを繰り返し聞きながら、実行できなかったということを忘れてはなりません。
 信仰は人のわざではなく神が生み出してくださるものです。しかも、「ゆだねる」の本来の意味は「放り投げる」ことで、自分の思い煩いや恐怖感を、そのまま全宇宙の支配者であるヤハウェの御前に差し出すことです。わたしたちは、「あなたのみこころのままに……」と祈る前に、自分の混乱した感情を、正直に、あるがままに注ぎ出す必要があるのではないでしょうか。
 それにしても、「主は、あなたのことを心配してくださる」(二二節b)とは、なんと優しい表現でしょう。これは「あなたを支える」とも訳されますが、神の救いは、あなたの重荷を取り去ることではなく、重荷や思い煩いを抱えたままのあなたを支えることだからです。

しかも、主の目に「正しい者」(二二節c)とは、主に向かって叫び続ける者にほかなりません。そのような人を、主は「いつまでも揺るがされるまま」には放置されず、試練の中で立つことができるように支えてくださるのです。しかし、神を忘れ、自分の強さを誇っている者は、死後のさばきを受けるか、「自分の日数の半ばも生きられません」と言われます(二三節)。
 病院で手術を受ける患者さんなどに、「大丈夫」と書かれた小石を手渡し、握らせながら、「あなたが願っているようになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでも大丈夫の小石なのですよ」と言ってくださる方がいたそうです。そのように私たちの不安に寄り添ってくれる人は本当に支えになります。同じように、イエスは、この祈りを通して、私たちの気持ちに寄り添ってくださいます。
 しかも、私たちの主イエスは死の力に打ち勝つことで、人生の途中に何が起ころうとも最終的な勝利が保証されていることを証ししてくださいました。私たちは、そのことのゆえに、どんなときでも、「それゆえ、私は、あなたにより頼みます」(二三節)と告白できるのです。

ヒトラーによって指導されたナチス・ドイツに多くの教会が妥協をしてゆく時期に、ディートリッヒ・ボンヘッファーが、生きたキリスト者の交わりについて記した『共に生きる生活』(一九三九年)は今も、多くの人々から愛読されています。彼は、そこで共同体としての賛美歌が斉唱(ひとつの声)によって歌われるべきことを強調する一方で、多くの詩篇は並行法を生かした二つの声で朗読されるべきこと、そして、詩篇を、神であり人であるキリストご自身の祈りとして再評価すべきことを訴えています。彼はその際、多くの人が、ひとりでいることを恐れるがゆえに交わりを求めること、また、主にある交わりを自分自身からの逃避の手段とすることを厳しく戒めています。なぜなら、ドイツの破局は、それぞれのキリスト者が、ひとりで神の前に立つことを忘れた結果でもあるからです。そして、これは集団主義的な日本の教会の問題でもありましょう。
 キリスト者の交わりは、自分の不安や寂しさを、相手構わずぶちまけながら、それが受け入れられることを期待するような共依存的な関係になってはなりません。ボンヘッファーは、「ひとりでいることができない者は、交わりに入ることを用心しなさい。彼は自分自身と交わりをただ傷つけるだけである。神があなたを呼び給うたとき、あなたはただひとりで神の前に立った……ひとりであなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らなければならなかった……あなたは自分自身から逃れることはできない」と語っています(「ボンヘッファー選集」Ⅵ「告白教会と世界教会」『交わりの生活』森野善右衛門訳、新教出版社刊、一九六八年、三三一頁)。
 しかし、私たちの心は、いつでも、どこでも、鳩のような翼をもって神のもとに憩うことができます。その導きがこの詩篇です。交わりの中で、自分と他者の声を交互に聴きながら、このたましいの叫びを読むとき、不思議な安心が生まれることでしょう。そして後は、ひとりで自分の心を注ぎだして祈ることができます。そのような神との交わりこそ、人との交わりの力の源泉となります。


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