2「鳩の翼が私にあったなら……」

「ああ、鳩のような翼が私にあったなら、そうしたら、飛び去って、休みを得ることができるのに……」(六節)という祈りを最初に読んだとき、思わず微笑んでしまいました。それは私が常日頃、自分に向かって「この問題から逃げ出そうとせずに、しっかりと向き合え!」などと自分を叱咤してきたからです。しかし、私よりはるかに勇敢なダビデは、逃げ出したいような自分の気持ちにも優しく寄り添っています。
 しかもその上で、逃げ場のない自分の現実を描きます。彼の住む町の中には、「暴力と争い」、「不法と苦しみ」、「虐げと欺き」が満ちているというのです(九〜一一節)。人によっては、現在の職場がそのような環境かもしれません。逃げ出したくても、生活のためには逃げられません。そればかりか、最も近しいはずの人が最も恐ろしい敵となっているというのです。たとえば家庭で精神的な虐待を受けるなら、どこに逃げ場があるでしょう。彼らは自分の悪意を巧妙に隠しながら「滑らか」で「優しい」ことばを用いて語りかけ(二一節)、「私はあなたのためを思って……」となどと言いながら、実際には「そのままのあなたには生きている資格がない」という隠されたメッセージを伝え、生きる気力を奪い取っているということがあります。
 ところで、著者はなんと、「荒野」を「私の隠れ場」と描きます(七、八節)。それは人の目からは、誰の保護も受けられない、孤独で不毛な場所でしょうが、だからこそ「神だけが頼り」となります。つまり彼は、「翼が私にあったなら……」という白昼夢に逃げているようでも、「あらしと突風」のただ中で、そのたましいは神のみもとに引き上げられているのです。それは、今は、「密室の祈り」と呼ばれる一対一で神に向き合うときに体験できることかもしれません。

二〇〇一年にスイスで開かれたハンス・ビュルキ先生による牧師向けのセミナーでのことですが、私があることへの感想を述べたとき、それが自分の問題を他者のせいにしているような部分があったのを先生は鋭く察知し、厳しく突っ込んで来られました。私は皆の前で恥をかかされた気持ちになりました。そのとき、先生は、皆に向かって「彼に安易な慰めのことばをかけてはならない」と命じられました。また私には、「湧いた感情をいじってはならない。自己弁護してはならない。受けるべきケアを受けられなくなる……」と言われました。
 私は落ち込み、しばらく悶々とした気持ちでいました。しかし、徐々に予期しない形で不思議な慰めが与えられ、一週間近く経って、黙想の時に読まれたみことばが、心の奥底に迫って来て、感動に満たされました。後で先生が、「説明は、多くの場合正しくない。弁解の延長線上にあるからだ。『自己弁護する者は、自分や人を非難している』」と語ってくださいました。
 私はそれまで、何か悪いことが起こると、自己弁護をしたり、人に慰めを求めたり、また、自分で自分をカウンセリングし続けて来たように思えました。本当の意味で、問題を抱えたままで神の御前に静まり、神の解決を待ち望むということができていませんでした。

しかし、ダビデは、この祈りを通して、恐怖におびえた心を、そのまま神にささげました。その結果、彼の心は、まさに鳩のような翼を得て、神のみもとに引き上げられ、安らぐことができたのではないでしょうか。その結果、彼はサウルやアブシャロムの手から逃れるときに、驚くほど冷静な判断を下し、明日への布石を打つことができたのです。
 一〜八節の祈りを十九世紀ドイツの作曲家フェリックス・メンデルスゾーンが「わが祈りを聴きたまえ」(hear my prayer)という十分間余りの曲にしています。暗く重い調子で始まった音楽が、「ああ、鳩のような翼が私にあったなら……」というところから、すみきった希望の調子に変わります。それは、私たちが自分の暗く沈んだ気持ちを正直に神に訴えながら、しだいに、たましいが神のみもとに引き上げられ、やすらぎを得てゆく展開を表しています。


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