2 イエスに知られている「そしり」と「恥」と「侮辱」を受ける苦しみ
私たちの喜びは、多くの場合、誰かと心が通じ合う中に感じられ、反対に、悲しみは、理解してほしいと思っていた人から誤解され、いわれのない非難を受けたときに生まれるのではないでしょうか。人の基本的な悩み、痛みは交わりの中から生まれますが、そのことが一九節で、「そしり」「恥」「侮辱」という三つの似た意味のことばで表現されます。それはこの詩全体で繰り返されていることばであり、また詩的に婉曲的に表現されている痛みの本質です。
その意味は基本において重なっていますが、あえて説明すると次のように定義することができます。第一の、「そしり」(ハラプ)とは、人格を傷つけるような中傷、あざけりで、「尊敬」の反対語です。第二の、「恥」(ボーシュ)とは、面目を失う、期待が裏切られる、立場がなくなること等の痛みを意味します。第三の、「侮辱」(カラム)とは、いやしめられ、プライドが傷つくこと、恥ずかしい思いをすることを意味します。
日本語(古語)の「はぢ」にはこれらすべてを含めるような意味があると思われ、「はぢ」はしばしば、激しい「恨み」に転じます。不思議に、そのような心の動きは二二〜二八節にも描かれているように思われます。日本人の心とダビデの心には似たような動きがあるかのようです。
そして、この「はぢ」の痛みは、創世記によると、アダムが自分を神のようにして、神から離れてしまった結果として生まれた痛みです。私は昔、「キリスト教は恥ではなく、罪を問題にする」という説明に違和感を覚えたことがあります。それは多くの日本人にとって、罪責感よりも恥の方が根源的な痛みだからです。しかし、創世記ではまさに恥をより根源的な痛みとして描いています。つまり、福音は、罪からばかりでなく、恥からも語ることができるのです。
実際、ドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーも、恥の痛みに関して、「それは、人間がその根源から離れたことをいかんともしがたく思い起こすことであり、この分裂に対する苦痛感であり、根源に戻りたい無力な願いである」と表現しています(「ボンヘッファー選集」4『現代キリスト教倫理』森野善右衛門訳、新教出版社刊、一九六二年、一九〇頁)。
ですから、ここでの「あなたは、私が受けているそしり、恥、侮辱をご存じです」(一九節)とは、これらの私の痛みを、神が軽く見てはおられず、よく理解しておられるという意味です。その上で、「私に敵対する者」は、「みな御前にいるのですから」と言いながら、なお、自分の痛みを赤裸々に表現します。ダビデは、「すべて主に知られているから訴える必要がない……」ではなく、「だからこそ遠慮なく言うことができる」と思いました。
私たちは人のことばに傷ついたとき、自分の傷つきやすさを責めることがありますが、ダビデは、「そしりが 心を打ち砕き、私はひどく傷ついています」(二〇節)と、生きる気力を失ったほどの痛みを率直に表現します。ダビデはライオンと戦うほどに勇敢な人ですが、同時に驚くほど繊細で感受性が豊かな人でした。自分の感性を恥じる必要はありません。
しかも、そのような痛みの中で、彼は、「理解してくれる人」、つまり「一緒に泣いてくれる」ような人を「待ち望んでも、誰もなく」と正直に訴えています。また、「慰めてくれる人」、つまり母親が泣く子を抱くように(イザヤ六六・一二〜一四)寄り添ってくれる人を「見いだせなかった」と嘆いています。私たちはこんなとき、「人の同情などを求めてはならない!」と自分に言い聞かせながらかえって空回りすることがありますが、彼は自分の孤独感を正直に祈っています。
多くの牧師は、社会の枠から外れがちの人にも真剣に寄り添い、彼らが神を見上げることができるようにと労苦していますが、その対応が「甘すぎる……」、「教会の聖さを傷つける」と非難の対象になることがあります。しかも、事情を説明することは許されません。私も牧師になって間もなくの頃、そのような孤独感に圧倒されたことがありました。そして、そんなとき、二〇、二一節に自分の気持ちが記されているのに深い慰めを見いだすことができました。
それは、その孤独感こそ、イエスご自身が十字架で味わった痛みの中心であることが分かったからです。福音記者ヨハネは、イエスが十字架上で「わたしは渇く」とおっしゃって、「酸いぶどう酒を受けられた」のは、この詩篇のことばが成就するためであったと解説しています(ヨハネ一九・二八〜三〇)。つまり、この詩篇の文脈から明らかなように、イエスはそのとき、「水」ばかりか「愛」に渇いておられたのです。
聖書は、十字架の痛みを、肉体より精神的なもの、特に孤独感に焦点を当てて描きます。イエスは私たちに先立ってその苦しみを通りぬけられました。だからこそ、私たちの心が深く傷つき、狐独を味わっているとき、イエスは私たちを慰めることができるのです。イエスは、私たちの心の痛みを軽蔑することなく、まず、一緒に泣いてくださる方であることを覚えたいものです。