1 泥沼に沈んだような気持ちのときの切迫した祈り

一〜四節でダビデは自分の絶望的な状況を詩的に表現します。私が人の相談に乗りながらこの箇所をお読みすると、「それこそ私が表現したかった気持ちです!」と急に心を開いてくださるということが何度もありました。それは、イエスご自身が一緒に「深い泥沼に沈んで」(二節)くださる方であることを覚え、闇の中に光を見ることができるからです。
 しかも、「叫ぶことに疲れ果て、喉は濡れ、この目は、私の神を待ちわび、衰え果てました」(三節)という祈りを聞くとき、「私の祈りは全然かなえられない……」という焦る気持ちから、「これは私だけではなく、すべての信仰者が一時的に通らされる現実なのだ……」と落ち着くことができます。そして、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません」(Ⅰコリント一〇・一三)という慰めを感じることができるでしょう。
 そればかりか、イエスご自身が、当時の宗教指導者から憎まれていることの意味を、「ゆえなく私を憎む者」(四節)というみことばの成就だと引用されました(ヨハネ一五・二五)。
 そして、「私は、盗まなかった物さえも、返さなければならないのでしょうか」とは、自分の責任ではないことの責任を取らされる不条理を嘆いたものです。みな人生のどこかでこの気持ちを味わったことがあるのではないでしょうか。しかし、そこで私たちは、「キリストの苦しみにあずかる」(Ⅰペテロ四・一三)という誇りを抱くことができます。

五、六節でダビデは、自分が自業自得の苦しみにあっていることを認めながらも、神が自分の苦しみを放置し続けることは、「万軍の主(ヤハウェ)、主(アドナイ)」、「イスラエルの神」というご自身の御名を汚し、また神に従おうとするすべての人にとってのつまずきになると訴えています。
 人が神を知るきっかけは、目に見える信仰者を通してです。ですから、私たちも、「私をこの悲惨から救い出すことは、あなたの栄光のためです」と大胆に祈ることができます。
 また、「あなたのために私がそしりを負い……」(七節)以降の記述は、私たちが神への信仰のゆえに誤解され、あざけりを受ける現実が記されていますが、それは何よりも私たちの救い主イエスが受けた苦しみそのものでした。
 たとえば、「あなたの家に対する情熱が、私を食い尽くし」(九節)とは、イエスが神の神殿から商売人を追い出されたときに弟子たちが思い起こしたみことばでした(ヨハネ二・一七)。
 そしてパウロは、「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」(ローマ一五・三)と言いつつ、イエスご自身がこの九節二行目の、「あなたをそしる者たちのそしりが、私に降りかかりました」というみことばをご自身に当てはめていたと解説しています。
 つまり、イエスが受けた「そしり」は、父なる神への「そしり」であるというのです。イエスは十字架上で、「今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」(マルコ一五・三二)とあざけられましたが、それは人々が自分の期待通りに動いてくださる神だけを信じようとすることの現れです。今も、世の人々は、「私の理想を実現し、私の必要を満たしてくださる神」だけを求め、神が創造主、絶対者であり、私たちにどんな命令をくだすこともできる方であるということを忘れています。人々は、神にもあなたにも、身勝手な要求を押し付けてきます。「そしり」はその結果に過ぎません。それをわきまえて私たちは生きるべきでしょう。

しかも、その際、私たちは、人の誤解を解こうなどと頑張る前に、「私、私の祈りはあなたに!主(ヤハウェ)よ……答えてください」(一三節)と祈ることが大切です。その際、「神の豊かな慈愛(へセッド)」、つまり、何度裏切られても人に真実を尽くし続ける愛と、「御救いのまこと(真実さ)」という神のご性質に訴えることができます。
 残念ながら、人々から不当な「そしり」や「侮辱」を受け、村八分にされながら、「神のみこころは私たちが苦しみに耐えること……」と思い込み、神に向かって大胆に叫ぶことができない人がいます。それでは、「運命だと思って諦めよう!」という世の人々と同じ発想ではないでしょうか。神は絶対者であられますが、意地悪な方ではありません。私たちが、一〜三節に描かれ、また一四、一五節で繰り返されている「泥沼」「大水の底」という切羽詰った状況から、「救い出し……助け出してください」と必死に神に願うことを、喜んでくださいます。
 興味深いことに、一三節での「みこころのときに……答えてください」という控えめな祈りは、一六節では「答えてください!主(ヤハウェ)よ」という叫びになり、一七節では、「早く答えてください」という性急な訴えになっています。
 また一六節では、「あなたの慈愛(へセッド)はすばらしいのですから。豊かなあわれによって、御顔を私に向けてください」と神のご真実に訴えながら、一七節では、「あなたのしもべから御顔を隠さないでください」と、神がよそ見をしておられるかのような訴えがされています。
 このような祈りは、私たちの感覚からすると、極めて、お行儀の悪い、無礼な願い方かもしれません。確かにこの世で人にものを頼むときには、一定の手順があり、相手の意向に反する願い方をすれば聞いてもらうことはできません。しかし、神は、幼い子供が親に願うときのような率直さや正直さを何よりも喜んでくださいます。人間の心は不思議です。忍耐できない気持ちを表現できて初めて、「必要なのは忍耐です」(ヘブル一〇・三六)と納得できるようになるからです。


次へ目次前へ