3 神のさばきと救いを祈ることができる者が味わう自由

二二〜二八節は、自分の「敵をのろう」かのような祈りに思え、とまどいを覚えます。しかし、不思議に、この箇所は福音を理解する鍵と思えるほど新約聖書で頻繁に引用されています。
 「彼らの前の食卓はわなとなり、平和が落し穴となりますように。彼らの目が暗くされ見えなくなり、腰がいつもよろけますように」(二二、二三節)は、ダビデがイスラエルに対する神のさばきを預言したものだとパウロは解説しています(ローマ一一・九、一〇)。
 「その陣営は荒れ果て、宿営には住む者もなくなる」(二五節)は、イエスご自身がエルサレムへのさばきの預言として理解しておられました(マタイ二三・三八、ルカ一三・三五)。またイエス昇天後はペテロが、イスカリオテのユダに対する神のさばきを、「実は詩篇には、こう書いてあるのです」(使徒一・二〇)と言いつつ、この同じ箇所を引用しました。
 そればかりか、二八節では「いのちの書」ということばが聖書中初めて出ますが、これは黙示録の鍵のことばです。神の御前に悔い改めた者に関して、再臨のイエスは、「わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない」(三・五)と約束しておられますが、そのように福音の核心を表現する際に用いられています。つまり、私たちが飛ばして読みたくなるような箇所を、イエスもパウロもヨハネも他の弟子たちも深く思い巡らしていたという現実があるのです。

「怒り」は大切な感情です。「あなたの憤り……燃える怒り」(二四節)とあるように、神は罪に対して怒られる方です。そして私たちも、怒りの感情を持つ者として造られています。私たちの問題は、怒るべきことに怒らず、怒らなくてもよいことに怒ってしまうことではないでしょうか?
 確かにイエスは、十字架上で、「父よ。彼らをお赦しください」と祈られましたが、それはご自分を十字架につけた者たちが、父なる神からどれだけ厳しいさばきを受けるかを知っておられたからです。事実、その前にイエスは、「彼らが生木(イエス)にこのようなことをするのなら、枯れ木(宗教指導者)には、いったい、何が起こるでしょう」と語っておられます(括弧内は著者注、ルカ二三・二七〜三四)。また、イエスはエルサレムに向かう途上で、「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される」(ルカ一三・三四、三五)と深く嘆かれましたが、この最後の文はこの詩の二五節からの引用です。

私たちが他の人から深く傷つけられ、怒りが押さえられないとき、自分に向かって「怒ってはならない!」と言い聞かせるよりは、まずこの詩篇に従って祈ってみるとよいのかもしれません。それは、いじめにあった子供が「お父ちゃん……」と泣き叫ぶような気持ちを訴えるものです。そのとき、私たちは、神の目がふし穴ではなく、聖徒たちのためにすみやかに復讐をしてくださる方であることを知ることができます(黙示録六・一〇)。
 そして、私たちは、神の復讐の恐ろしさを理解したとき初めて、真実に、「父よ。彼らをお赦しください」と祈ることができるようになるのではないでしょうか。祈りの基本は、私たちの心の底にある気持ちを神に聞いていただくことにあります。しかも、さばきを下すかどうかは、神がお決めになることなのですから、何でも自由に打ち明けたらよいのではないでしょうか。

「私は、卑しめられ、痛んでいます」(二九節)は、これまでの自分の痛みの要約のような意味が、また、「神よ。御救いが私を高く上げてくださいますように」は祈りの要約のような意味があります。そしてイエスの復活は、イエスがこの同じ祈りを父なる神にささげ、御父がそれに答えられたことの証しと言えましょう。この詩の調子が、三〇節以降、感謝と喜びに大きく転換するのは、そのことを預言的に記したものではないでしょうか。
 この詩を用いて、「心を神の御前に注ぎ出」(詩篇六二・八)すときに、痛みの中でイエスとの一体感を味わうことができます。それは、イエスご自身が「私たちの病を負い、私たちの痛みをになって」(イザヤ五三・四)、これを祈られたからです。そればかりか、イエスが三日目に死人の中からよみがえられたように、私たちは、どんな苦しみにも出口があることを確信できます。
 そして、三〇、三一節では、「神の御名」を、賛美することこそが、どのような高価な犠牲にもまさって神に喜ばれると表現されます。御名とは神の「慈愛」、「まこと」、「あわれみ」などのご性質のすべてを表すものです。つまり、ここでは一七節とは反対に、神がご自身の「しもべから御顔を隠す」ということが決してない方であることが歌われているのです。

最後に、「悩んでいる人々は、これを見て、喜びます。神を尋ね求める人々よ。あなたがたの心は生き返ります」(三二節)と大胆に約束されます。私たちにとっては、キリストの復活こそが、「悩む者たちを喜ばせ……生き返らせる(revive)」ことの保証です。
 私たちの心が萎えて、生きる気力を失ってしまうようなとき、自分で自分を励まそうとするのではなく、主に自分の気持ちを奥底から訴えることで、主ご自身が私たちの心を生き返らせてくださいます。それこそ、イエスが私たちにお送りくださった聖霊のみわざです。
 「なんでこんなことで自分は悩んでいるのだろう……」と自分を責めたり、また、悩んでいる人に、「あなたはなんでそんなことぐらいでくよくよ悩むの?」などと言ってはなりません。イエスは決してそのように私たちを見ることはなさらないからです。しかも、イエスは私たちを落ち込んだままにはしておかれず、私たちに再び生きる活力を与えてくださいます。

イエスは父なる神に従った結果として、「そしりと恥と侮辱」に襲われ、「私は、卑しめられ、痛んでいます」と訴えられました。私たちは、「平安(シャローム)がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」(エレミヤ八・一一)ということがあるかもしれません。しかし、その「平和(シャローム)が落とし穴」(二二節)となることがあるのです。ですから、自分の心の痛みを偽ることなく、それと正直に向き合い、この詩篇の祈りを通して、主に取り扱っていただく必要があるのではないでしょうか。イエスご自身が、苦しみの中でこの詩篇を祈って、高く上げられたのですから。


次へ目次前へ