2 主(ヤハウェ)の語りかけを聴く者の幸い

それにしても、人は、世界の驚異を感じるところから偶像礼拝に走る傾向があります。日本でも、人々は、山や太陽や月や星に向かって祈りをささげ続けてきました。それで神は、ご自身のことを、聖書を通して知らせてくださいました。七〜九節では、その聖書のことばのことが六種類の表現で、「主(ヤハウェ)の……」と描かれています。
 第一は、「主(ヤハウェ)のみおしえ」です。これは原文で「トーラー」と記され、新約はそれを「律法」と訳していますが、多くの場合は聖書の始まりのモーセ五書を指すものでした。そこには神ご自身の自己紹介と恩知らずな人間への関わりの歴史が記されています。そして、その中心は、天地万物の創造主がこの私を「恋い慕ってくださった」(申命七・七)ということだと思われます。そして、その主の語りかけには人のたましいを生き返らせる力があります。
 第二は「主(ヤハウェ)のあかし」ですが、それは「あかしの幕屋、あかしの箱、あかしの板」を連想させ、神ご自身が民に直接語りかけた「十のことば」を意味すると思われます。それはどんな無知な人も理解できる神のみこころの中心で、まさに、無知な者を賢くする力があります。
 第三は、「主(ヤハウェ)のさとし」で、これは具体的な「指示」を意味します。私たちが物事の本質が見えずに迷っているとき、主のみことばこそが、発想の転換を導くことができ、私たちの心に感動を呼び起こすことができます。
 第四は、「主(ヤハウェ)の仰せ」で、これは軍隊の「命令」などにも用いられることばです。世の王は、しばしば自分の身を守るために家臣を危険に追いやります。しかし、主の命令には私利私欲の汚れから自由な「きよらかさ」があり、私たちの目を明るくすることができます。
 第五は、「主(ヤハウェ)への恐れ」で、私たちの生きる「道」を指しています。「主(ヤハウェ)を恐れることは知恵の初め」(箴言一・七)と言われるように、そのような生き方こそが「純粋で」、「いつまでも続く」という永遠のいのちの原点です。
 第六は「主(ヤハウェ)のさばき」です。人間の歴史の中で「さばき」は、しばしば、権力者に甘く、社会的弱者に厳しいもので、賄賂わいろによって曲げられました。しかし、主のさばきこそ「まことで、ことごとく正しく」、主は、ご自身がやもめやみなしごの味方であると、繰り返し語っておられます。自分の弱さを覚える者にとって、「主のさばき」こそは「救い」だったのです。

「金にまさり……慕わしく、蜜よりも……甘い」(一〇節)とは、これら六つの表現すべてにかかります。聖書こそ、私たちにとっての最高の宝、心の最高の栄養、活力なのです。
 そして、作者は、自分を「あなたのしもべ(奴隷)」(一一節)と呼びつつ、奴隷が主人のことばに絶対服従することとの比較を描きます。人間の主人は、自分の益のために奴隷を用いますが、私たちの創造主は、これによって私たちを「教え」、ご自身との豊かな交わりを築かせ、そこに大きな報いを約束しておられます。
 私が神学校で学び始めたとき、涙ながらの感動的な証しを聞きながら、かえって「僕のような生ぬるい信仰者はここにいるべきではない……」と悩みました。そのときその神学校の創立者がやさしく、「あなたはみことばに感動したことがありますか?」と聞いてくださいました。私は、「もちろんです。それで僕はここに来たのですが……」と答えました。先生は、「それで十分ではないですか」と言ってくださいました。私の心はどんなに暗く、みじめでも、主(ヤハウェ)のみことばは、そこに愛の火を灯すことができます。私たちは、「信仰」を人間的な意志の力かのようにとらえ、主のみことばにある創造の力を過小評価してはいないでしょうか。


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